JDR公開理念情報 

 こうみょうめっせーじ
Japanese Dream Realization




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「あまてらすおおみかみの みこころは ひとりひとりの
こころのおくに ひめられているのである」





  しょくんよ、てんのかがみのこころをたいせつにせよ。こころを、てんのみこころにつねにすなおにむきあっていれば、こころはまるくなり、あらゆるわざわいはすべてはねかえり、あらゆるふくとくがおのずからまねきよせられてくるのである。しんにすなおなこころになるということは、あまてらすおおみかみのみこころ、たいようのおおかみのみこころにたいして、つねに「ありがとう」というかんしゃのおもい、けんきょさのおもい、れいせつのおもいをわすれないということでもある。

 たいようのめぐみはばんにんにあたえられているものである。たいようのこうみょうは、ばんにんにふりそそがれているものである。おなじように、たいようのごとき「しんり」のむげんのえいちと、「しんり」のむげんのじあいと、「しんり」のむげんのゆうきは、ばんにんにふりそそがれているものなのである。

 こころをかたくなにしてとざしていては、たいようのこうみょうも、いわどがくれしてしまうことであろう。たいようのごときこうみょうは、いついかなるときも、ひとりのれいがいもなくふりそそがれているのである。こころのくもりをつくったり、こころにあめやかみなりをうつしているのは、ほかならぬしょくんじしんのこころそのものなのである。

 じんせいにてるひあれば、くもりのひも、あめのひもあろう。しかし、てんのみこころはいちじょうである。えいえんふへんの「しんり」のこうみょうをかかげつづけるものである。たいようのしんりのふくとくをさずかり、あらゆるわざいをはねかえし、うんめいをかいたくしてゆくためのじんぎとして、たいようのおおかみから、ひとりひとりが「しんり」のえいちのしょうちょうとしてのかがみと、「しんり」のじあいのしょうちょうとしてのたまと、「しんり」のゆうきのしょうちょうとしてのつるぎが、こころのないおうにたいようのおおかみのしんせいとしてさずけられているのである。みずからのこころにすなおになれば、そのないおうに、あまてらすおおみかみも、たいようのおおかみも、おられるのである。

 そして、こころのないおうにあるこうみょうの「たから」をはっけんされたならば、おのずからにほんこくのでんとうせいしんのおくにあるこうみょうの「たから」も、あらゆるみんぞくのぶんかのたからをも、こころのめでしんにみえるようになり、いちだいこうみょうぶんかぶんめいがそうぞうされてゆくことであろう。あらゆるめんにおいて、すべてはよくなってゆくしかないのである。





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