「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「ルソーの書は何故世界的古典でありつづけるのか」





JDR総合研究所 代表
天川貴之




 ルソーの書は、何故、世界的古典となりえたのであろうか。それは、カントや、ヘーゲルや、ゲーテや、ナポレオンや、トルストイや、中江兆民などに根源的影響を与えつづけ、現代という時代においてもなお、知的教訓を与えつづけているからであろう。或る意味で、エマソンよりも偉大であるとも云われるが、それは、ルソーがそれだけ広い分野に影響を与えつづけているからであろう。

 哲学者思想家というものは、その高みによっても評価されるが、その広さと深さによっても評価されるものである。ルソーの書は、哲学書ではあるが、それ程難解ではない。カント、ヘーゲル、西田幾多郎の書の方が難解であり、抽象的である。しかし、その思想的な幅の広さは、ルソーの方が大きいであろう。

 同じく、セネカやキケロやアウレリウスも、それ程難解ではない日常の実践哲学であるとも言える。しかし、そこには非常な普遍性と格調高さがあるものである。それらは、永遠普遍に歴史に受け継がれて、現代においても、活きた哲学書であり、大学で教えてもよいような内容であり、アカデミックにも耐えうる古典的実践哲学なのである。

 ルソーの思想もまた、大学で教えられているのは当然である。現代でも、フランスのソルボンヌ大学では、ルソーの「新エロイーズ」などが未だに読まれており、それは、世界中に読み継がれている古典なのである。

 エマソンの書も、ショーペンハウア―の書も、同時代には少数売れただけだが、後に人類の歴史を貫く古典となったが、これは何故であろうか。

 エマソンの書は、確かに芸術書に位置づけられることも多いが、基本的に、哲学書思想書であり、それは、考える人のための本であり、知的な叡智的直観でもあるものである。「エマソン禅」とも云われることもある。

 この日本においては、福澤諭吉も、大隈重信も、西田幾多郎も、歴史を超えて影響力を持ちつづけた時代精神であったものであり、大学を創り、日本精神の原点となり、日本文明・日本文化の原点となっているものである。

 何故、福澤諭吉の思想は、ただの実践哲学に終わらずに、アカデミックな大学精神、教育精神となっていったのであろうか。また、日本国のリーダー達の先生哲学者となりえたのであろうか。

 福澤諭吉には、「先生」にふさわしい品格風格があるものである。それは、一万円札になる前から、一万円札でなくなる後まで、今後とも、永遠の哲学精神、思想精神となりつづけるであろう。

 私もまた、福澤山脈の一人でもあり、福澤諭吉は一つの目標であり、指針である。福澤諭吉のような本を書きたい、人物を修めたいという気持ちは今までずっとあり、しかも、大学生の頃よりも、年齢が経る程に、尊敬は高まり、成熟してくるものである。

 自己の哲学思想というものを、或る時は、福澤諭吉の文脈で語り、或る時には、坂本龍馬の文脈で語り、或る時は、ルソーの文脈で語り、或る時は、セネカの文脈で語る時の私の思想は、より良質なものとなって、歴史に刻印されていると思う。

 こうした歴史的偉人の思想哲学を参照熟読しながら、自己の哲学思想を述べてゆくことが有効であると言える。自分自身の文章を、具体例を用いて説明しながら、歴史に刻印してゆく上で大切な方法である。このように、歴史的偉人の哲学の下に、自分自身の思想と哲学とインスピレーションを語ってゆけばよいのである。

 ルソーが偉大であると思われないぐらいに、何度も何度もルソーを読み込んで、血肉化して、それを、自分自身の言葉と哲学として、ルソーとして語りつづければよいのである。それが、ルソーを活かし、ルソーを超えてゆく王道である。

 歴史的偉人の哲学を、直接、何度も学びながら、その都度、思索して、その当人のように、自分自身の哲学思想として表現しつづければよいのである。

 自分に哲学者としての天分があれば、哲学者としてのインスピレーションも、本格的な哲学思想書となって活きてくる。しかしながら、本当の哲学者の天分と器がないと、哲学者のインスピレーションがあっても、充分な哲学書とはならないのである。これは、哲学者の天分の領域である。

 では、学者と哲学者というものは、何が違うのであろうか。真なる哲学的生き方とは、歴史的な哲学者に学びつつ、自ら思索しつづける力を強く持つことである。確かに、学者の本分も、多かれ少なかれ、哲学者であることでもあるが、しかし、自らの思索力によってこそ、真なる哲学者は生まれてゆくのである。

 エマソンは、確かに、学者でもあるが、在野の哲人でもある。ルソーも、学者であるが、在野の思想家でもある。このように、在野にいることによって、よりよく哲学者・思想家・芸術家となる方もいるのである。組織に縛られない自由人である方が、充分な読書と思索の時間を取れる所もあるのである。





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