「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「『一実多名』の哲学理念について」



JDR総合研究所 代表
天川貴之




 「一即多、多即一」というものが、真理の体系の本質である。日本神道における「中心帰一」というものも、仏教やキリスト教や神道やイスラム教やユダヤ教や儒教や道教などの諸宗教・諸思想は、全て、「中心」に帰一する所の多なる法(法則)、真理であるということである。

 すなわち、ソクラテスやプラトンやアリストテレスも、アウグスティヌスやトマス・アキナス、デカルトやカントやヘーゲルやルソーも、全て、根源の一なる精神に帰一するということである。絶対無なる根源の神仏、絶対精神である理念に帰一するということである。

 これを、「一実多名」という。多くの名前で呼ばれている所の神や仏や哲学思想は、一なる理念、一なる精神に帰一してゆくということである。

 このことを法学理念から言えば、多様なるものが、多様なるままで、お互いの個性を尊重し合いながら、それぞれが固有の権利を持つということである。

 これを、哲学的真理、宗教的真理から言えば、「万教帰一」「中心帰一」である。全ての教えは、根源の一なる神仏に帰一してゆくのである。従って、仏教の真髄とキリスト教の真髄は、本来、一なる真理なのである。

 理性の中には、バラバラに分けて考える理性の働きもあるが、統合的に、全てを一なるものとして、その共通項を悟る理性もあるのである。

 このような「一実多名」の神学的哲学は、「一即多、多即一」の真理であり、本来、如来の悟りなのである。そのような悟りを表現したものが、「絶対矛盾の自己同一」であり、統合する「絶対無」であり、「絶対理念」なのである。

 真なる真理の体系とは、一見バラバラに見えるものに対して、そこに統一的体系を与えるものである。それを可能にするものこそが「大悟」であり、「叡智的直観」である。

 このように、アリストテレス的には論理矛盾するものが、ヘーゲルや西田幾多郎においては、統合的に理解されるのである。

 「一実多名」の哲学理念は、日本神道の「万教帰一」の真理とも一致しているのであり、その帰一する所は、仏陀の教えそのものである所の「法身としての真理」であり、それはまた、キリスト教における「父なる神」であり、プラトンの「善のイデア」であり、ヘーゲルの「絶対精神」、西田幾多郎の「絶対無」、福澤諭吉の「天」でもあるものである。

 このような「中心」に帰一する真理の体系を観じて、体得してゆくということである。地上に名前のある釈尊であるとか、キリストであるとか、ソクラテスであるとか、天照であるとかを超えた、法身としての大宇宙の真理の真髄を観じ、修得するということである。

 キリスト教と仏教が本来一つであるということを悟ること自体が、大きな悟りである。これを鍵として、宗教的真理の真髄を悟り、学び、古今東西の全ての真理を体得し、中心帰一する普遍的体系を持つということである。

 「一実多名」とは、まず、名前から入って、実質の真理を悟り、その真如が様々に応用された多なる体系を統合的に位置づけてゆくということである。

 福澤諭吉の「文明論の概略」も、大隈重信の「東西文明の調和」も、西田幾多郎の「善の研究」や「思索と体験」も、一なる真理の体系そのものを、理性と博識によって悟得する所にその生命があるのである。

 「古事記」「日本書紀」における日本の神々の生命が、仏陀の叡智と一体となって神仏習合が出来、さらに、キリスト教やユダヤ教やイスラム教とも一体となって、世界宗教の生命を得て、それらが福澤諭吉や大隈重信や西田幾多郎によって近代化、現代化し、諸宗教・諸哲学・諸思想の真髄を普遍的な体系に統合するのである。

 このように、絶対理念としての神とは、本来、根源の一なる真理である。仏とは、本来、根源の一なる法身の真理である。哲学とは、本来、普遍的真理の体系であり、イデア(理念)の叙述である。

 「プラトンとカントは同一のことを述べている」というのがショーペンハウアーの認識であり、プラトンとヘーゲルは同一の生命を持ち、マルクス・アウレリウスの「自省録」と、ルソーやエマソンの道徳倫理は、本来、一つなのである。





このホームページのトップへ 理念情報リストへ


「『一実多名』の哲学理念について」 に対する
ご意見・ご感想などございましたらご遠慮なくお寄せください。

ご意見・ご感想はこちらから