「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「『受苦』の体験は聖者への関門である」



JDR総合研究所 代表
天川貴之




 人生には多様な側面があるけれども、様々な悲しみや苦しみがあるということも真実である。外からは見えないだけで、それぞれの人は、多くの悲しみや苦しみをかかえて生きているものである。こうした人生の真実を直視し、真正面から洞察してゆくことも、哲学の大切な使命なのである。

 人生における自分自身の悲しみや苦しみを、一つの「運命」だと受け入れれば、このような「運命」の苦悩に対して真正面から格闘したベートーベンの音楽の芸術性もまた、より深く味わうことが出来るであろう。

 そもそも、「仏教」は、「受苦」の「苦諦」から始まっている。「人生は苦である。」という真理を悟ることもまた、仏教の大切な悟りなのである。

 自己の「受苦」というものも、避けがたい「受苦」であることもあるであろう。その時に、誰もが、その「受苦」の分だけ、イエス・キリストの「十字架」を自らの人生の内で背負っているのであると考えてもよいのである。

 人生の中に悲しみや苦しみがなければ、その方の人生観も、楽天的ではあるが、どこか薄っぺらなものになったり、救済力のないものになったりすることも多いであろう。

 ショーペンハウアーの哲学が永遠普遍の生命を持っているのは、彼の「苦悩」の哲学が、多くの人々にとって、人生の真実に近いからであると思われる。

 「受苦」の中を経て初めて、人は人生の真実を真正面から観て、哲学や宗教に魂の救済を求める気持ちになるのではないだろうか。「受苦」の原点があるからこそ、その都度、哲学的菩提心の原点に立ち返ることが出来るのではないだろうか。

 人生の芸術舞台の中で、悲劇の場面があるのが人生の真実であり、その中から、いかに、哲学・宗教・芸術の「理念」の華を咲かせてゆくかということが、人間の使命であり、哲学者の使命なのではないだろうか。

 人生という魂修行の場において、悲劇の舞台、すなわち、「受苦」の場面は、避けては通れない時もあるであろう。その度に、逆に、その「受苦」故にこそ、自分は、より深く人生を洞察出来るのであると悦ばなくてはならない。

 「受苦」の体験は、人間を聖化するのである。偉人の人生というものは、大抵、その多くが、様々な「受苦」を経験して、その中から、「理念」哲学・宗教・芸術の華を咲かせているのである。

 これらのものを真に共鳴して味わうには、自らも「受苦」の体験が必要であり、これがあるということも、大局的に観れば、天の配剤であるとも言えるのである。

 例えば、かのモーツァルトの音楽の背景にも、「受苦」の経験を癒す優しさがあると言えるのであり、それは、ただ単に、明るく伸びやかである訳ではないのである。そこには、限りなく透明な、「受苦」を包み込む愛があるのである。「レクイエム」であっても、聖なる悲しみの昇華として、人生の「受苦」の場面には、時折、想い出して聴くのもよいであろう。

 さらに、イエス・キリストの生涯であっても、何故に救世主がこんなに悲しみや苦しみを経験しなければいけないのであろうと疑問に思うかもしれないけれども、これは、人々の、人類の様々な悲しみや苦しみを自ら背負うことによって、神の下に人類を救済されている姿であるとも言えるのである。

 だから、自分自身の人生の舞台に「受苦」の部分が出てきても、それは、人生を深化する聖なる悲劇の舞台であると思って甘受することである。しかも、これを、魂修行として、魂が磨かれる「ありがたい」機会であると感謝して受けとめれば、不思議とその悲しみや苦しみは軽くなるものである。

 天使としての「器」が出来るためには、数多くの悲しみや苦しみを経ることが必要であると云う。そうでないと、多くの人々の魂を救うだけの「器」が出来ないのであろうと思う。

 このように、聖者が人生を生きる時には、「受苦」の体験をすることが多いと言えるが、一般の人々であっても、多くの「受苦」の体験があるのが、魂修行の場所としてのこの世の仕組みなのであり、天の摂理であるとも思う。

 それらは、「解脱」によって無くなる苦しみもあれば、無くならない苦しみもある。故に、自らの人生において避けがたい悲しみや苦しみに直面した時には、それだけ心を聖なるものに向かわせるチャンスが与えられているのであると憶うことである。

 こうした人類への「共苦」の心を持つこと、「大悲」の心を持つことが、自己の器を広げ、自らを聖者の魂へと精錬してゆくのであろう。

 ベートーベンやヘレン・ケラーの病が治ったらそれでよいかというと、そうとも言えないのである。それもまた、人生のかけがえのない悲劇としての芸術の舞台であり、人々を救う哲学・宗教・芸術を育み、救済力を育む機会なのである。





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