「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「観照的生活において見性してゆくこと」



 日々、生活の中で、観想的時間、観照的時間を取り、真理(イデア)を洞察見性してゆくことは極めて大切である。これこそが、哲学をすることの核心なのである。

 様々に流転してゆく現象の内にあって、流転し変化しない永遠普遍の真理(法則)、すなわち、法を認識してゆく者こそ、哲学者である。

 そのためには、常に哲学書を観じ、心を鎮め、精神の内奥から湧き上がってくる所の真理を、自分自身の真理として書き留めてゆくことが必要である。

 あくまでも、読書が中心にあるのではなく、読書を契機とした「思索」が中心にある生活を送ってゆけばよいのである。

 現象の奥にある因果の法則、現象の内奥にある理念(イデア)の実在をありありと観照出来れば、ありとしあらゆる現象が、この理念(イデア)、法則(法)に統べられていることが分かるであろう。

 ありとしあらゆる現象の内にあって、それから超然としているイデアを認識することは可能なのである。なぜならば、それは、現象の奥に発見される摂理であり、意識現象の奥に見性される真理であるからである。

 自己の意識現象が純粋になると、その中から精錬された真理(イデア)が自然に浮かび上がってくるのである。もしくは、意識現象を無として、自我を滅却して、無我となり、煩悩を滅却した時に、意識の内奥から顕われてくる所の真実在であるともいえる。

 これこそ、真理の発見、理念(イデア)の見性である。これを「般若の智慧」といってもよいであろう。哲人のエピステーメ(真智)といってもよいであろう。

 日々、これ瞑想であり、日々、これ見性である。それを積み重ねてゆけば、哲学的知性は実成してゆくのである。





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