「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「理性ある思索する主体について」



 イデアというものが実在であるということは、哲学の祖と言われるソクラテス、プラトン以来、哲学の初めにあることである。それは、この変転きわまりない現象の中で、変転しない永遠普遍の実在に、心の拠り所、認識の拠り所、知恵の拠り所を求めたのであろうけれども、そもそも、その思索する主体である自己自身も流転しているものでもある。

 考えというものも変転している。「吾思う、故に吾あり」(デカルト)という「吾」自体も、思索の過程において変転してゆくのである。故に、仏教的には、思索する「吾」の本質は、「空」であるといえるかもしれない。

 しかしながら、その「吾」の本質をよくよく振り返ってみると、それは思索された真理を生み出した源であり、永遠なる意志である叡智界からの流出ともいえる「理念」の論述の源でもあるものである。

 このような理性的思索の本質とは、変転してゆく所にあるのではなくて、不変の真理性にこそあるのではないだろうか。思索する過程において、一貫して示されている真理の生命は永遠不滅である。

 真理を産み出すことこそ、真なる思索の本質である。変転しているかのように観えるのは、それは知性の法輪が回転しているようなものである。真理とは、思索を媒介として認識され、流出し、現実化するものである。故に、思索というものは、真理を様々な角度から照らす営みであるともいえるのである。

 思索する主体が永遠不滅の実体をもつか否かということは論点の一つである。少なくとも、思索された真理は永遠性をもち、産み出された真理の文章自体は、時間の中で不死である。従って、それを思索する主体は、現象界に存在しながらも、現象界を超越した次元の世界に実在しているものでもあり、理念の世界、イデア界、叡智界にも存在するものなのである。

 そうでないと、相互作用によって、同質のもののみが同質のものを認識しうるという物理学上の真理からいっても説明がつかないし、思索する主体、すなわち、理性をもった魂は、本来、理念の一部であり、叡智の一部であり、イデアの一部であるということが出来るのである。故に、それは、現象界に流転しながら、現象界を超越した永遠の生命をもつとも推定されるのである。

 哲学とは、本来、魂が、現象界を超えて、理念界、イデア界へと超入する営みについての学問ではないだろうか。魂の本来の姿を示現する営みではないだろうか。理性ある魂が永遠不滅の実体を獲得する営みではないだろうか。

 確かに、仏教では、実体ある「吾」を否定し、無我こそ真理であると説いている。しかし、そこで説かれる無我というものは、現象界に執われた吾を否定する思想であって、「真我」を肯定する思想でもあるということも考えておく必要があるであろう。

 それこそが、仏性であり、永遠の仏の部分であろう。このように、理性ある魂は、真なる思索を通して真理を顕現するのである。それは、仏性ある魂が瞑想を通して真理を顕現するということと同質でもあろうと思う。

 このような思索する「吾」とは、哲理の母体でもあるが、そもそも、思索する「吾」は、輪廻転生をするのであろうか。それとも、輪廻を解脱しているのであろうか。確かに、思索しつづける限り、日々、魂は生まれ変っているともいえるであろう。

 このように、形而上学的存在論としての理性ある魂をどう位置づけるかということは、様々な角度から考察されなければならないことであるから、様々な思想を吸収し、消化し、じっくりと思索してゆけばよい。

 そもそも、思索するということの本質とは一体何であろうか。それは、真理を産み出してゆくということでもあろう。しかし、真理のみが真理を産み出すことが出来るのであるから、思索する主体は、それが真理の母体である限りにおいて、産み出されたものが真理であれば、それを産み出した母体も真理であろう。

 また、魂の不死性についても様々な論があるが、不死というものは永遠の叡智界と一体化しているものでもあるので、私は、思索する主体としての魂は、その本質において不死性をもっているものであると思う。

 かのソクラテスやプラトンも、魂は本来不死であって、肉体という限界に束縛されている存在であり、死はその開放であるとされている。彼らが説いたイデア論が、形を変えながら哲学の全歴史にその影響を及ぼしているように、彼らの魂の不死性の理論も、カントでさえもが「実践理性批判」の中でそれを肯定しているのである。

 そもそも、真理とは、現象ではなく、現象を統べる法則のことでもあるが、思索を通じて法則を発見することと、法則そのものを創造することとは異なるものであり、あくまでも、我々人間が為し得るのは、思索によって法則を発見することのみであって、創造はしないであろうと思う。

 このように、思索というものを通じて、自らの教養の足場をしっかりと踏み固めながら、自らの理性でもって考えられる様々な真理を探究してゆくことである。確かに、人間は限界のある生命であるとも思う。しかしながら、だからこそ、知恵を求めるのであろう。

 私にも限界はあるであろうが、その中で、最大限に理性を伸ばし、思索を積み重ねてゆきたいと願っている。人類の無数の古典的叡智の教養の足場を確かめてゆくだけでも、相当な時間と労力がかかるものである。

 自らの思索の力によって真理を開拓しつづけ、叡智を吟味しつづけてゆくということは、今までも常にやってきたことであり、これからも為してゆくことであろうが、その過程自体に意味があることでもあると思う。それこそが、哲学者の使命であり、天命でもあろう。





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