「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「セネカに観る徳への熱情と不屈の精神力について」



 真理には様々な側面があるものであり、古典的真理というものは、大海のようにして、様々な生命を養っているように思う。今までも広く多くの人々に愛され、魂を磨きつづけてきた精神は、これより後も、多くの人々に愛され、魂を磨きつづけてゆくことであろうが、改めて再読して、深く心を打つという真理があれば、それは、その真理が既に確かに自らの心の内に根付いていて、その自己の内なる同様の真理が共鳴しているということでもあろう。

 古典的良書の面白い所は、再読して飽きがこないばかりか、少し時間を置いて、様々な経験と思索を経て改めて接してみると、全く新たな真理に出会ったような強烈な印象を遺すことがあるということである。

 老子の言葉に「博き者は知らず、知る者は博からず」というものがあるが、たとえその数が少なくても、本当に良い古典的良書を魂の伴侶とすることが出来たならば、何度もその中から真理を導き出し、その度に違った角度から真理を導き出して、新たなる感動をもって、自ら主体的に真理をつづれるようになるものである。

 それは、どんなに現代の思潮が変わっても、決して失われることのない不動の定点となることであろう。まず、不動の価値をもつ古典的良書の思想的内実を定点とし、そこから現代の数多くの著作を俯瞰する習慣をつけておいた方がよいであろう。

 歴史の波間に耐えうる思想というものは、確かに運命の恩賜もあるかもしれないが、それは、その内に、それだけ普遍的で客観的な真理が、人々の徳と良心に響くものが遺っているからであると信ずる。絶えず古典的良書に立ち帰り、そこから現代の書物を俯瞰するということの重要性は前にも述べたことがあるが、また、改めて、不動の自己の精神の要塞を創る上で大切なものであると思う。

 このような古典的真理の智慧の眼を培うということは、実は、決してたやすいことではなく、大抵の場合、我々は、ともすれば、現代に流行している浅薄な思想に幻惑されてしまい、本来の定点を見失ってしまって不安になることも多いからである。そして、何度も云うように、人間の眼というものは、現代という時代を真の意味で達観することは容易ではないからである。

 今までも、誰もが同時代にあるものの価値を見誤ってきた歴史があり、それは、歴史上の偉人の価値であっても例外ではない。そのような場合であっても、歴史が、また、歴史を通して出てくる無限無数の賢人達が、それぞれに一生をかけてその価値を判定し、その成果を次の世代へと伝えていって下さるのである。

 例えば、現在、古代ローマ帝国期のキケロやセネカ等の全集が日本国で本格的に復刊されて、現代的良識の源となっていることは注目に値することである。それらの一つ一つの言霊が、崇高で香しい気品と風格をもっているのである。

 このセネカの人生哲学に流れている、徳に対する激しい愛情は、不滅の神々と、不滅の魂と、不滅の徳を確かに実感させるものである。このように、徳についての洞察は、深くあらなくてはならない。そして、それは、的確に本質をつき、かつ雄弁に語られた方がよいであろうと思う。この雄弁さという徳の中には、繊細さや知恵の輝きや格調高さや美しさなどの性質も入っているものである。

 そして、セネカは、何と様々な人生の困難について、その不撓不屈の精神で、忍耐心で諦観し、不動心を保っていることであろうか。考えてみれば、偉人という偉人は、様々な逆境を乗り越えてきた実績があるし、また、偉人とまではいかなくとも、普通の人々であっても、何と数多くの人生の困難に立ち向かっていることであろう。

 このセネカによって、快楽に負けず、快楽に左右されずに、むしろ使いこなして、不動の徳の輝きを保ちつづけることの大切さを改めて教わるのであるが、確かに、快楽に打ち克てないようでは、人生で様々に出会う困難を超克してゆくことは難しいのかもしれない。今だに生老病死の四苦八苦に対して、時に弱音を吐く私自身も、セネカの不撓不屈の精神力に改めて激励される気持ちである。

 このような不滅の精神力を鍛えるために、時に、試練のような運命が与えられることもあるのかもしれない。しかし、それこそが、偉人を偉人たらしめる試金石であるという歴史的真実を、よくよく魂の腑に落としておこうと思う。

 セネカの魂は、私の魂を確実に剛く雄大にする。そして、時代を超えた精神的価値、徳の輝きというものを実感させる。その生命の言霊に、現在の私の内なる魂が感動してやまないのである、このように、思索している精神を揺り動かす相手が歴史上の偉人であるということは、それは、とても頼もしいことではないだろうか。

 やはり、魂を磨くための相手は選ばなくてはならない。それは、徳の高い歴史上の偉人である方がよいであろう。古典的哲人の魂に戯れながら、同じく自らも哲学を育んでゆくのであるから、我々の人生とは思索の連続であるものであり、人生の機会というものは常に一期一会であるから、その過程において、常に何かしらの新たな発見と体験が加わっているのである。

 このように、セネカの熱血あふれる徳への讃歌を聴いて胸が熱くなり、無限の勇気が湧いてくるという体験をされた方は、セネカのような哲人の志が、自らの心の内にも確かにある、ということの何よりの証であるといえよう。この感動を、心の襞を、大切にして守りつづけたいと念う。




〔 光明祈念歌 〕
徳なるもの
     輝き満ちて
          語られり
不屈の精神
              思索溢れる
(貴)




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