「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「思想的に広くあり時代を超えて普遍的であるということについて」



 人生は様々なことがあるのにもかかわらず、一人の人間が体験し、所有しているように思っているものはわずかである。その人の所有している世界が広ければ広い程、その人の人生は様々な輝きで満たされてゆくのであり、少しでも広い世界観を獲得することが出来たならば、その方の人生は、かけがえのない、より充実したものになってゆくことであろう。

 人生観の広さというものを意図的に創ってゆくことも大切である。少しでも認識の幅を広げ、世界観の可能性を広げてゆくということは、自らが飛翔する天空を広くしてゆけるようなものである。自由自在に駆けめぐる天空は、広ければ広い程よいものであろう。

 人生の細部から世界の遠方まで、必ず、見落としている視点が数多く存在することであろう。今一度、今まで自分が見落としていた視点がないかどうかを考察してゆくことは、哲学的営みを為してゆく上においては、常にその原動力となるものである。

 くり返し古典を心読するにしても、光の当て方によって全く違った部分が再発見され、再邂逅され、自ら驚くものである。例えば、キケロにしても、何故、あれ程までに広い見識をもって、広い世界観をもって著述が出来たのであろうかと思える程、古代人とは思えぬ程の博識家ぶりである。

 逆に、老子は、「博きものは知らず、知るものは博からず」と逆説的な見解を述べられているが、一つの地域、一つの時代の中にあって、それを越えて、真にユニバーサルな認識が持てるということは、一つの驚きでもあり、発見でもあり、人間の可能性を観る想いがするのである。

 キケロは、ローマに居ながらにして、古代ギリシャの様々な思想やローマの様々な思想を止揚融合させ、一大体系を築いている。その哲学の到達点の高さに驚く以前に、その総合力の広さに驚き、この精神に、金剛石の如き輝きを観て、うらやましく思うのである。

 確かに、老子のように、無為にして、居ながらにして、少しの根源的真理をもって万象を認識することも達人の境涯であり、一つの達観であり、理想ともする所ではあるが、キケロの持つ所の総合力の広さの体系については、そこに哲学者の永遠の理想のようなものを感じる。

 このキケロの「神々の本性について」などを観ていても、よくこれだけ様々な哲学流派の考え方を、様々な側面から検討して、自己の体系に含めることが出来たものであると思うのであるが、このような総合化してゆく能力というものも、是非共、培ってゆかなければならない哲学的特技でもあろう。アリストテレスにしても、古代の時代に、形而上学的思索を基にしながら、よくもあれだけ幅広く、諸学の源となるものを、総合化、体系化してゆけたものである。

 そもそも、人間の理性というものは、とても澄んでいて、美しく麗しいものであると思われる。理性の可能性は無限である。人心の細部のことも思索出来、はるか天体のことも、動植物のことも、魂のことも、天の摂理のことも、政治のことも、経済のことも、様々な観点から考察することが出来る、このような理性の巨人というものは、一つの星のように、精神の大宇宙に実在し、影響を与えつづけているのである。

 また、福澤諭吉にしても、同時代に坂本龍馬や西郷隆盛が居て、日本国内で様々な動乱があったということを忘れさせてくれるぐらい、豊かな総合力と時代を超越した普遍性を有している。思想家としても、自主自尊の存在であって、ただ単に海外から様々な思想を輸入しただけの知識人という方ではなく、独自の思索力を持った体系家のように観えるのである。様々な古代の伝統から最近の近代思潮に到るまで広く見聞し、それを独自の思想的表現にまで昇華しえた方であり、その意味で、世界史に誇るべき思想家ではないかと思われる。

 確かに、福澤諭吉が、西田幾多郎のように求心的な形而上学をあまり追究されなかったことは、個人的には残念にも思われる面もあるが、その変わりに、思想的、学問的に広く時代を超越して、精神界を啓蒙している点は独自の煌めきがある。

 そして、その言辞の雄弁は、決して平俗ではない。格調高く、自由闊達にして華があり、深さもある。この点に関して、老子は、「美言は信ならず、信言は美ならず」と言われているが、言霊を活かすという意味においては、福澤諭吉の文章は模範的であり、かつ自由自在な思想的語彙力を駆使されているといえよう。

 日本語で福澤諭吉全集があるだけで、日本の精神的言霊力は随分と向上し、流麗になっているのではないかと思われるのである。例えば、識見のある方を現す「士君子」などという言霊の使い方などは、是非共、現代にも復活させたいものである。

 一方において、先の老子の言葉の見解とは、言葉面だけが美しくて、実質的深さや思想のない言葉を戒めたものであると思われるが、それも思想家の原点の一つであろうと思う。同じく老子の「稀言は自然なり」という言葉も、確かに、禅語のように、言葉少なであっても的を得、本質を捉える言霊はあるのであり、同じく思想を語る上での一つの戒めと可能性の探究であると捉えたい。

 時代の限り広くあり、時代を超えて広くあり、かつ高くあるということは、哲学者、思想家にとっても一つの理想である。その一方において、自らの専門に徹し、一道一分野を究めてゆくという学術的態度もあるものであり、それもまた道であろう。しかし、私は、キケロやアリストテレスや福澤諭吉のような思想的視野の広さにも憧れる所が大きいし、それを常に念頭に置いておきたいと思う。

 哲学をすることは、ともすれば求心的になりやすいが、時には、遠心的な広さを意図的に心がけて思索してゆくのも道であろう。心の総合力、理性の総合力というものは、まさしく無限なのである。あらゆる知識を思索の対象とし、自らの思索を広げ、あらゆるものを、出来うる限りにおいて止揚統合してゆくことも一つの理想である。

 どのようなものも自らの理性の対象化し、呑み込んで消化吸収してゆくこと、そして、自らの思想に結晶化してゆくことも、永遠の夢であり、希望であり、それこそが、哲学的若さと老練さの源であるように思う。







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