「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「思索的生命と古典的生命が相通い合うことについて」



 人間は、自然体でいる時に幸福を感ずることが出来るものである。自然体でいる時に、様々な発見をするものである。その発見を積み重ねてゆけば、自ずから真理の大道が拓かれてゆくことであろう。

 真理というものは、自己の内奥から湧き上がってくる泉水が形成してゆくものでもある。自己の内奥なる泉水と同じ真理を外の世界に観ずる時、我々は真の友人に会ったような気がするが、思索というものは、人間の本性からつむがれてゆくものであるが故に根源的なものである。そのようにして、思索を通じて、根源的な所で一つの生命を共有することが出来たならば、我々は、自己の使命を果たしているといえるであろう。

 我々の生命の営みは、その根源に哲学を有しているものである。哲学的生命が息づいているのである。この哲学的生命を真に自覚してゆけば、真なる自己の姿を発見することが出来るであろう。自己を根底において支えている思想的生命は、自ら思索しながら生きているのであって、様々な思想の影響を受けながら、同時に影響を与えて存在しているのである。

 自らの思想を育みつづけてゆくということは、自己を確固たるものにしてゆく上で大切なことである。自己の思想が豊かであればある程に、我々は本当に内実のある豊かさの中に生きているといえるのである。

 そこに思索しつづける魂があれば、哲学はその生命を輝かせることが出来る。思索しつづける魂は、自らの思索に合う言葉を常に探しているのであるが故に、常に自らの言葉を有しているといってもよいであろう。無意識の内にも、より適切な表現を探しているのが思索的営みであるのである。

 思索しつづける魂は、常に、思想の表面ではなく、思想の内実を観る。思想の名前ではなく、思想の実体を観る。そして、常に思想を交流し合うのである。ある思想の内実を知るということは、思想そのものを活きた現実として把握することである。そして、その思想そのものの内実を知ることによって、我々は、何故にその思想が古典的生命たりえているのかをどこまでも探究してゆくことになる。

 古典的生命とは、現象の波に影響を与えても、影響を与えられることはない、時代を超越した精神である。しかし、それがまた、個人の精神的遺産であることを我々は忘却しがちになるが、どの思想も、哲学も、文芸も、人生の中で培われた果実であるのである。

 我々人間は、どのような環境下においても、古典的生命を培うことは出来るのである。古典的生命に感応するのは、自己の古典的生命である。古典的生命に感応するということ自体が、その環境を何らかの形で超克しているのである。

 自己の思想を産みつづけてゆくこと自体が、人生を形成しているのである。人生を超えたものを、他者の人生に対して与えようとしているのである。そこに思想が活き活きとしてあるということは、他者に対して影響を与えようとする魂が存在しているということである。思索する営みの後ろ姿そのものによって、人々に感化を与えてゆくことが可能なのである。

 我々が本当に生きたといえるのは、真に思索している時ではないだろうか。思索している内容を言葉にして伝達している時ではないだろうか。どこまでも個人の内面が深められてゆくと、必ずそこに、普遍なる道が拓けてゆくものである。

 真なる思索の生命は、必ずや、普遍性を獲得してゆくはずである。普遍性を獲得しているからこそ、変わりゆくものの中にあって、変わらざる生命を刻むことが出来るのである。そしてまた、永遠なる生命の生まれる源となってゆくのである。

 永遠なる生命が生まれてゆけば、それこそが哲学者にとっての誉れであり、哲学者にとっての最高の生である。我々人間は、深い所で思索しつづけてゆけば、必ずや、永遠の生命を発掘することが出来るのであろう。

 エマソンの言葉にしても、一個人の思索的随想の中に、何故、これ程までの永遠普遍の思想が刻印されているのかと思うと不思議である。時代を超えて、地域を超えているのにもかかわらず、そこに人心の根底を穿つ力があり、生命があるのは何故であろうか。

 深き内面の生を生きるということは、時代を超え、地域を超えた思想を創造してゆくということであろう。外なる現象は様々に変わっても、根底にある精神は不変不滅である。時代、地域を超えた永遠普遍なる声と直接対話するということが、真に古典的生命を味わってゆくということであるのである。

 古典的生命というものは、人類共通の理念であるのである。古典的生命というものは、地上的な現象に左右されない、不動の生命力の源となる精神である。そこからは、汲めども尽きぬ力が湧出してゆくのである。その源に立ち返るということが、この哲学随想の主題の一つである。

 古典的生命の内実を真に知るに到るまでには、必ずや、深い所において自分自身の精神も対話しているにちがいない。その対話の過程を叙述してゆくことは意義のあることであろう。深い所で思索しつづけている精神は、静かな躍動をしているのであり、また、安定した進歩をしているのである。

 確かに自己の精神を練ってゆくのには時間が要るが、しかし、そのようにして真に自分自身の言葉をもつことが出来たならば、精神は、その都度、充実した生命を刻印してゆくことであろう。自分自身が深く考えていることを知るということは、自分自身の本質を知る上でかけがえのないことであるのである。

 真なる知性というものは、思索しつづける生命のことである。思索しつづける生命は、自ら灯りをかざすのである。そこに確かに思索しつづける精神があるということは、自ら生み出すものを有しているということでもある。

 古典的生命は、常に思索しつづける精神と共にある。古典的精神は、問いを投げかければ常時応えて下さるものである。故に、問題意識をもって取り組めば、どのような思索も決して空しくはならないであろう。

 精神の理想は、精神の理想と通い合う。古典的精神の中に刻印されている理想は、永遠不滅の理想であり、それは、どのような現象をも超越しているばかりでなく、数多くの現象に影響を与えてきた思想であり、それはまた、人間から生まれた永遠の生命であるのである。

 古典的生命は、我々の精神を永遠の生命へと導いて下さるものである。このように自己の精神が普遍的であるということは、何と悦ばしきことであろう。普遍的な生命がありうるということは、どれだけ人間の可能性を輝かしいものにしていることであろう。そのような普遍的な生命が自己の内にもあるということが実感出来た時、人間は、何と永い生を生きていることになるのであろう。

 様々な個性はあるが、しかし、それぞれの個性の中にも普遍性がにじみ出ていることは、何という愛すべき哲学の特性であることか。哲学の営みによって、個性の奥に普遍性を獲得出来るのならば、その生命は真に永い生命をもつといえるであろう。




〔 光明祈念歌 〕
通い合う
     生命の声は
          永遠の
真理に向かう
              思索の道程
(貴)









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