「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「実人生の感情の連続が思索になることについて」



 自分自身の道を歩んでゆくということは、もうここまでかと思われるようなことがあったとしても、必ずや、その先があるものである。もうここまでかと思った時には、そこから新しい道が拓かれようとしているということなのである。

 しかし、人生には、何故このように多くの障害があるのであろうか。思ったままの自己の道というものは、真っすぐにはなかなかすすんでゆけないこともあるであろう。しかし、曲がった道もよいではないだろうか。違った道には、その道にしかない宝物が秘められているのである。その宝物を一つ一つ発掘してゆけばよいのである。

 人間は、幾度もつまずき、幾度も回り道をする。しかし、その度に新たな発見があるのならば、思索の過程は無駄にはならないであろう。どのような時にも思索の精神を持っていれば、いかなる道も真理の大道となってゆくのである。

 思索しつづける精神に、本来限界はない。思索をしつづければ、真理が道を拓いていってくれることがある。真理を発見すれば、道が整ってゆくことがある。真理を発見すれば、新たな道が観えてゆくこともある。

 真理とは不滅の光明である。たとえわずかな読書と思索の時間しかなくとも、一度思索をし始めれば、脈々たる力が内面から湧き出でて、生きるための支柱を創ってゆくものである。我々は、思索をしながら生きているのである。思索によって自らの道を開拓しているのである。

 思索しつづけた過程は、魂の歴史となって重心を与える。自ら思索したことと、自ら得た天来のひらめきの数々は、過去に道を展望し、未来に道を展望せしめるものである。思索している時、我々は正気になり、いや、むしろ神的狂気の状態になって、本来の自己を得るのである。本来の人生を得るのである。思索する力がわずかでもあったならば、その思索する力は魂の実在を雄弁に語り、魂の息吹きを刻印してゆくことであろう。

 知的創造が出来るということは、魂の悦びである。知的創造の中に、自ずから真なる自己が顕れるのである。真なる自己の人生が姿を顕わすのである。思索する過程に得られた天来のひらめきは、自己の自我を超えた力となってゆくことであろう。思索するのは、この天来のひらめきを受けやすい状態に自らを置くためでもある。天来のひらめきが多ければ多い程、思索はより一層の真理の光明を放つのである。

 たとえ少しでも前進していれば、哲学者として善く生きたといえるのであり、少しと観えるものの中に無限の飛躍があることも多いのである。人生は無限の奥行きを有しているものであるが、その一面一面が確実に思索され、展開されていったならば、生きているだけでも、相応の意義があることでもあるといえるであろう。生きている実感の中から、思索というものは生み出されてゆくものである。

 思索の中には、己が生きていることの意味が自然ににじみ出しているものである。ただの論理的理性の営みだけで思索は出来るものではない。一瞬一瞬の感情の連鎖が自己の思考になっているものである。故に、哲学というものは、生きてゆくための支柱であり、魂の軌跡なのである。どのような生の場合も、思索の対象とならないものはないのである。
このように、思索というものは、知識だけによって進んでゆくものではない。実体験に基づく感情の連鎖が思想を創り出してゆくのである。故に、いかなる状況にあっても、哲学者であっていただきたいと思う。主体的に考えつづける魂であっていただきたいと思う。

 そして、一句でも一行でもよいので、知的生産を行いつつ、自己観照をしていっていただきたいと思う。自らの立っているその足下をさらに深く掘り下げていっていただきたいと思う。自らの吐く呼吸の一つ一つを、思想にしていっていただきたいと思う。

 私はそのようにして思想を創っている。実人生をさらに深く生きるために哲学をつづり、哲学をつづりながら、自己を観照してゆく。そして、より深い生の意識をもって、人々と対話しようとするのである。

 自分自身が何を考えているのか分からない方もおられる。自分自身の考えが一体何なのか整理出来ていない方もおられる。そのような時は、立ち止まって、自己の魂の泉から清水を汲み出してみることである。

 真なる自分自身と出会うために思索をするのである。真なる自分自身を創造するために思索をするのである。似たような思索はあっても、同じ思索は二度とはないものである。故に、思索も一期一会である。一行一行の中に、自己の人生がにじみ出るものである。

 哲学とは、嘘がつけないものである。赤裸々な自己との対話である。哲学のはじめに、「汝自らを知れ」という言葉があるではないか。まず、いかなる時も、立ち止まって自らを省みようではないか。自らが何を思索しているのかということを問おうではないか。

 問いを深く掘り下げてゆけば、自分でも気づかなかった自己の本性に気がつくようになるものである。自己の本性を掘り下げてゆけば、誰でも真理に通じているものである。真理を自ら汲み出してゆけば、人生は真に価値あるものとして昇華されてゆくことであろう。

 一つでも多くの真理を発見することが出来たならば、その人は真に豊かな人生を送ったといえるであろう。一つでも多くの真理を人々に伝えることが出来たならば、それだけ世の中に貢献出来たといえるであろう。

 どのような状況下においても、真理を発見し、掲げることは出来るのである。そのようにして掲げられた真理は、万人のものとして、大生命として昇華されてゆくのである。哲学の道をどこまでも歩みつづけてゆこうではないか。




〔 光明祈念歌 〕
呼吸する
     数だけ真理
輝けり
遠くに届け
              深き胸動よ
(貴)









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