「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「詩人達の言葉はどこから生まれてゆくのか」



 生かされているという自覚があれば、自分も何かを与えたいと切に願うようになってくる。人間は本来神の子であって、万人が神性を有しているのである。万人が己が神性を何らかの形を通して発見し、実現したいと思っているものなのである。この天然の神性を、どこまでも観つづけてゆこうではないか。

 我々が確かに神の子であるという証を、一人でも多くの同胞達に知らせてゆこうではないか。たえまなく努力された行跡は決して虚しくなるようなことはないのである。どのようなわずかな歩みであろうとも、その背後には天の摂理が働いている。どのような飛躍であろうとも、天の摂理から逃れることはないのである。

 我々の魂の煌めきは、永遠の歴史を刻んでいる。しかし、この一瞬一瞬の魂の輝きを正確に遺せたならば、我々がどんなにか翼を生やした舞いを一挙手一投足においてなしているかが分かるであろう。一行一行において詩人の詩を創り、一句一句において歌人の歌を創っているかが分かることであろう。たとえ一つの動きであっても、音楽になっていることが分かることであろう。

 創造することは愛である。我々人間は、愛の清水を押し流してゆくためにつづりつづけるのである。生命の輝く限り、言葉が尽きることはない。語りたい詩歌が無限無数にあるのである。心の園に咲いている様々な花を、その咲くように映し出したいのである。これだけ多くの花が咲いているのならば、そして、その花の一つ一つに、神の国、天の国が出来ているのならば、いくらでも言葉を費やすことが出来るであろう。

 真冬にも咲いている薔薇の花は語りかけてゆくことであろう。何が真に強く、美しいのかを。そして、足が語り出す。手が語り出す。耳が語り出す。眼が語り出す。鼻が語り出す。大自然は、我々の魂の内に無限に秘められているのである。故に、心の内に展開している大自然を語り出してゆこうではないか。

 大自然の恵みが語り出す。一人一人の祈りを込めて、生命は謳い、天上の調べを幾重にも語ってゆく。そのようにして大自然の本性が流れ出してゆく姿を見せてゆく。この地上世界は、何という神の国、天上の園なのであろうか。もしも何かを歌っているのならば、何に感動したのかを、もっと詳しく伝えてほしい。そこには、つづってもつづっても尽くせない言霊がある。顕わしても顕わしても示せない輝きがあるのである。

 詩人達の言葉がこんなにも側近くに聴え、詩集に刻印されている永遠の美の調べは、無限無数の新しい世界を観せてゆく。こんなにも遠くの世界が側近くに展開してゆき、こんなにも時代を超えて心の軌跡が連なってゆく。そうして、心の中に展開した様々な風景は、唯一無二の時間を再現し、そして、その心象風景となった無数の言葉達が、その本来の意味を取り戻してゆくのである。

 詩人達の声は、永遠の言霊であり、それは我々の心の故郷を創り、そこに無限の開拓者が現れてゆくのである。こうして文章をつづっている間にも、詩人達の言葉が様々に想い出されてゆく。これからもずっと、永遠という言葉が自然に浮んでくるような心の風景を創ってゆこう。

 道は幾つも拡がっているのである。美しさといっても、無限にあるものだ。その一つ一つを、一期一会の出会いとして確かめてゆこう。幾ら語っても語り尽くせないぐらいに、我々の住んでいる世界は広い。あの宇宙が心の中に自然に浮んでくる時、そこには様々な銀河があり、星々が神話を語ってゆく。そして、幾つになっても永遠の旅人であるように呼吸をくり返し、その一つ一つが生命の歌を謳っているのである。

 一人との出会いは、無数の新しい世界との出会いとなって広がってゆく。一人一人が異なった太陽を観、異なった星空を観、異なった花を咲かせているのであるから、我々の心の中に展開する世界は、無限の可能性を秘めているのである。そして、そのかけがえのない一期一会の瞬間に観ているものが創造されてゆく。

 生命は生命を生んで止まない。光は光を生んで止まない。愛は愛を生んで止まない。一日一日に祈りが込められているのである。それは、世界が大調和となり、一人一人を幸せに生きてゆくことが出来ますようにという祈りでもあり、それは日々の習慣のように、活字の間からこもれ陽を見つけ出してゆくのである。

 そこにエマソンの微笑みが観えたならば、バイロンの涙も、シェリーの瞳も、ベルレーヌの面影も、ゲーテの笑いも、全ては風景となってゆく。決して忘れられない生命の営みが、一刻一刻の永遠をつむぎ出してゆく。我々は、一刻一刻の内に、唯一無二の出会いをしているのであろう。

 いつも観ている書物が輝いて観えたならば、それは、そこに神々の生命の微笑が刻印されている証であるのである。そこには確かに輝いている日々が刻印されているのである。生命の感動が刻印されているのである。

 創造者から創造者へ伝えられてゆくものもある。我々は、何かに感動しなければ、何かを創造するということはあるものなのであろうか。我々人間は、生きている証を確かなものにしようと、生命を刻印しつづけ、創造活動をなしつづけてゆく。そして、そのようにして創造されたものは、永遠の輝きを遺しつづけてゆくのである。

 真に訴えたいことは数行では終わらないことであろう。そして、創造しても創造しても、天上の生命の探究は、さらに奥があるように思われる。たとえ聖人君子の一行の言葉も日々異なって受けとられてゆく。その生命の営みの中には、無限への情熱と忍耐心が込められているのである。不動の信念と気概が込められているのである。

 いつの日にも熱情をもって人生を語りつづけたい。静かに闘志をもって世界を語りつづけたい。生かされていることのありがたさに、無限の感動が込み上げてくる。天よ、地よ、人々の生命の営みよ、全ては天衣無縫に織られているのである。天人達の悦びの声が聴こえてくる。




〔 光明祈念歌 〕
出会うとは
     一期一会の
花である
詩人達こそ
              自然の天使
(貴)









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