「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「真に美しいものを探究しつづける精神について」



 人間は、愛することによって、愛を天より授けられる。創造しつづけることによって、創造的愛が授けられる。創造しつづけるという愛は、人間の営みの中で最も本質的なことの一つである。人生には様々なことがあるが、しかし、その一つ一つは、創造されることを欲している一つの素材であると考えることは出来ないであろうか。

 創造的生命こそ、人間が万物の霊長たる所以であるといってもよいであろう。人間は、創造することによって、創造主の一部として、実在的生命を創り上げてゆくのである。彫創された人物は、永遠の生命をもって人類の歴史に参画するようになる。それはたとえば、ホメロスの詩をもとに、フェディアスがゼウス像を創ったように。また、ダンテの詩をもとに、ロダンが実在界を描いたように。

 詩をつづることによって、神々の生命が育まれ、その神々の生命が文化を創造してゆくこともある。その詩の源にあるものとは、理念の表現であろう。カントやスピノザがゲーテの美学に根源的に影響を与えたように、哲学者と詩人は、一なる理念をめぐって交流をするものである。

 我々が芸術として鑑賞しているものの背景には、哲学的精神が脈打っていることも多い。哲学を探究すればする程に、詩はより深いものとなってゆくことであろう。詩も思想の一つの表現形態であり、その背後には、思想が活き活きと実在していることが多いからである。何の思想もない感性的なものの描写からくる詩というものはありえるが、本来の精神の美を映し出すには何かが足りないといえるだろう。

 思想をもつということは、詩人の魂が成熟してゆく上で、とても重要な要素であると思われる。ゲーテの詩であっても、その背後には、思想が脈打っているものである。ゲーテは、文学という形式を通して、独特の宗教を創り、独特の哲学を語っているのである。故に、ゲーテの詩は、よく生きるための理念たりうるのである。エマソンも、文学を通して、独特の宗教と哲学を語っているのである。故に、そこから無限の哲学的生命を汲み出すことが可能なのである。

 真理を語るものが、芸術の根本にある理想である。真理を探究することが哲学思想の源にある動機であるが、真理は無限無数に存在している。人間は真理なしでもただ単に生きてゆくことは出来るが、真実の生命は、真理なしでは、本来生きてゆくことが出来ない。真理、すなわち、真善美聖の理念は、人間の真実の生命の源である。真理を自らの精神において育んでゆけばゆく程に、人間は無限なるものとなってゆくことが出来るのである。

 詩人であっても、美のために奉仕することだけが目的である訳ではない。真に美を表現しようと思えば、真についても探究し、善についても探究し、聖についても探究しなくてはならない。詩は、真について語り、善について語り、美について語り、聖について語るものでなければならないのであろう。

  また、哲学は、当然ながら真善美聖のすべての分野を射程にもっているが、その表現力において、美であること、芸術的であることも求められるのである。

 美しい言葉というものは、本当は真実から生まれる。真理から生まれる。思想哲学というものは、本来的な美を本質としているが故に、その生命の躍動をそのまま言霊にしてゆけば、自ずから、美が生まれ、芸術が生まれてゆくものである。

 イデアが美しいということが哲学の起源である。かのソクラテスの語ったロゴスは、最も美しいものを地上に表現していたといわれている。ソクラテスの地上の容姿は普通であるのに、その精神は、最も美しいものをロゴスによって証していたのである。

 故に、ロゴスによって概念的に語られることの多い哲学であっても、本来、美しいものであるはずである。ソクラテスによって語られたロゴスは、美しさの中に、真なるものと、善なるものと、聖なるものが共存しているようなものであったのである。

 いわゆる本来の真実なるプラトニックラブというものは、「イデアの美」を愛することであろうが、この「イデアの美」というものは、形式的な哲学の中にだけ顕れるものでもない。それは、ソクラテスの場合は対話の中であったが、その会話の一言の中に表現されることもあるのである。またそれは、時には、「無言の言」である場合もあれば、「寸言一句の言」である場合もあろう。

 しかし、言葉は、やはり感情によって活きることも事実である。感情の裏うちのない言葉は本当は存在しない。感情を表現するために、言葉は創造されるのである。愛であっても、愛しているという言葉が愛の言葉の全てではない。もっと別の言葉で、愛しているという言葉以上のものを表現することは可能であろう。また、この愛という言葉で表現されうるものを、行為で表現する方もおられるし、行為を通して感情を表現し、さらには、その奥なる理念を表現する方もおられるのである。

 イエス・キリストの本質は言葉であろうが、同時に、行為でもある。同様に、例えば、本来無言な体操選手の演技は、その中に自らの感情と思想を込めているものもあるのである。また、そのように言葉で表現されるものを、音や絵で表現する方もいる。それらに共通しているのは、表現という創造的愛を実現しているということである。創造することによって、一なる理念とつながっているということである。

 創造する可能性は無限にある。音楽家が、どのようなことでも、同じような個性をもつ、それぞれに異なった音楽を創りうるように、哲学者もまた、どのような対象であっても、同じような個性をもつ、それぞれに異なった哲学を創りうるのである。

 ありとしあらゆるものの本質を洞察し、創造してゆくということは、無限無数になしてゆくべきであろう。身体の細胞が一刻一刻変わっているように、人間の思索も一刻一刻変わっているものである。故に、自己の思索が歩んでゆく過程、生命の流転してゆく過程そのものを楽しもうではないか。

 「時間よ止まれ、汝は美しい」と想える時間を持てれば持てるほど、人生は価値あるものとなる。その永遠の今を、少しでも多く創造してゆかなければならない。本来美しいものに悪はないであろう。たとえば、一時的な快楽などは、本当に美しい実在ではないであろう。

 本当に美しいものを求めて、理念の美を求めて、人は誰もが哲学者となる。そして、人生と世界の様々な場面に理念の美が顕現していることを発見し、思索してゆくことであろう。本当に美しいものとは、天使の本質であり、神々のロゴスであるのである。

 美しいものを真に探究してゆけば、真実の愛に巡り合う。天上の愛に生かされている自己を発見するのである。




〔 光明祈念歌 〕
時よ時
     今こそ止まれ
真実の
イデア憧る
魂の旅
(貴)









このホームページのトップへ 理念情報リストへ


「真に美しいものを探究しつづける精神について」 に対する
ご意見・ご感想などございましたらご遠慮なくお寄せください。

ご意見・ご感想はこちらから