「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「理念の美が此岸に示現される時期について」



 私たちが観ているものの中には、様々な理念が顕れているものである。たとえ感覚的な芸術表現であっても、それが理念の直接的表現であるものは少なくない。故に、私達は、芸術を通して、理念をどこまでも探究してゆくのである。

 理念と出会う旅には、魂の翼、精神の翼が要るのである。理念というものは、現実として目前にあるものであるが、その本来の位置は、彼岸の世界である。私達は、彼岸の世界と隣接する此岸の世界を観ているのである。色即是空、空即是色の世界が、そこに如実に現れている。私達は、「空」の精神をもって、あらゆる「色」の相を達観してゆかなくてはならない。そのためには、哲学的境地が要る。哲学的精神棒が要るのである。

 深く観つめれば、どこまでも深く、理念は語りかけてゆくものである。遠くに観つめれば、どこまでも理念は広がってゆくものである。今、眼前にある芸術的創造物が、私達の魂をしてより崇高なる世界へと誘っているのである。

 私達は、そこに世界精神の顕現を眼前に観ることもある。また、時代精神の顕現をその内奥に発見することもある。全ては、芸術的創造物を通して、雄弁に、或いは密やかに語られているのである。奥の奥なる理念の世界は、今、此処に示現されているのである。

 例えば、ロダンの「考える人」とて、理念でなくして一体何であろうか。理性の顕現でなくして一体何であろうか。人間の思索する姿の内奥には、理念があるのである。人間は、自ら理念を直観する過程において、理念を示現しているのである。人間の肉体もまた、感覚的ではあるものの、理念の形象化した姿を現す場合もあるのである。

 哲学者の本質とは、肉体をまとったロゴスであり、理性である。考えるという営みの中には、永遠普遍なるものへの憧れが秘められているのである。人間が、有限なるものから無限なるものへと飛翔せんとして躍動し、或いは沈思する行為が、思惟の営みであるが、その背後には、熱情的な意志があるのである。深く胸中から湧きおこる意志の湧出があり、光の湧出があるのである。魂の内奥より、無限の光が湧出し、その光が思考となり、思考の光明を放ちつづけるのである。

 哲学者は、思考することによって、光を掲げているのである。そのように、思考する過程において光は掲げられてゆくが、思考するその後ろ姿にさえ、光は掲げられているのである。この光を洞察することである。彫像においては、哲理が人体の中に形象化して、象徴的に表現されているのである。しかし、哲理は身体の形式をも雄弁に語ってゆくものであり、その思考の中において考えられた対象の理念が身体全体に脈打っているものである。

 私達は、「考える人」の背後に、理念の魂の躍動を観ることが出来るのである。たとえ、その躍動は静止されたものとして描かれていたとしても、やはり、その中において躍動しているのである。生命の響きが、その中に刻印されているのである。生命の響きは、音楽となって身体の周囲を覆い、その身体は、一つの音楽を奏でている楽器のようにして描かれてゆくのである。

 故に、彫刻家は、身体の彫像を通して、音楽を作曲してゆくのである。その音楽を沈黙の内に聴きとってゆけば、音楽というものが、本来、理念の直接的なる表れ、表現であることに気付く。理念は、躍動しながら音楽ともなり、また絵画ともなるものであるのである。

 理念は、通常は概念的に思惟されてゆくものでもあるが、しかし、高度な知的直観によって、天啓の如く閃く時期もある。思索の中において、精神統一の中で閃くものもあるのである。そのように、深き禅定の中に湧き出した般若の智慧の光明は、空相そのままに実相を見、また実相そのままに色相を観るのである。実相即現象となって、真象が顕現示現してゆく所を観るのである。

 私達は、遠い彼岸のイデアではなくして、近く此岸の世界に理念を発見見性することが出来るのである。その時期である。真理の生命が無限に湧出してくるのは。真理の生命は、汲めども尽きぬ泉水のように、魂の奥底から湧出してくる。思考を通して、魂が、叡智界よりの光明の智慧を送り出してゆく。イデア界からの光明を魂が観照して、理念として顕してゆくのである。

 本質(理念)というものは、現象するものでもある。それは、現象の背後にある真理であり、法則でもある。宇宙の理法に従って、万物は展開しているのであり、生命の躍動も、真理の運行によって顕れてゆくものである。法則は到る所にあるものであり、法則の美は、永遠普遍の美の根源である。全ての美は、いや、真善美聖のすべては、法則から、真理から流れ出てくるものであるのである。

 この宇宙を貫く法則を発見見性出来るのが、人間である。日常の生活の中にも、宇宙の運行を発見するのが、人間理性の営みである。天空に輝く星は、精神の内なる理性のささやきの中にも現れる。人間が己が良心に基づいて思索し、直観する時期、天来の理念の音楽は、無限に響き渡ってゆくのである。

 そのようにして、理念と一体となって考える時、理念は考える人の中に直接的に顕れるのである。その理念の生命の躍動が、身体の彫像的ロゴスとなって顕れるのである。それは立体的でさえあるが、しかし、高次の精神的生命の躍動がそこに展開しているのである。

 私達は、もっとはっきりと観なくてはならない。生命の実相を。本質として展開した理念の真象を。そこにあるのは、人間を超越した精神であり、人間の中に限定して顕れた精神である。そして、それらの真善美聖の理念の奥には、神が実在しているのである。そこに神々の生命の流転する姿が如実に顕れることもあるのである。芸術家が表現しなくてはならないのは、この精神の躍動である。それはまた、理念への憧れであり、理念の啓示でもある。

 理念がそこに顕れる時期、精神は無限となって解き放たれ、本来の自由を獲得し、永遠の涅槃に入る。そして、沈黙の内にも普遍の真理を語り始めるのである。




〔 光明祈念歌 〕
彼岸の美
     此岸に啓示
されてある
理念の永遠に
 生命育め
(貴)









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