「哲学随想」
Japanese Dream Realization



哲学随想〜真善美聖の探究の扉〜
 「あとがき」



 哲学随想が一冊の書としてまとまったことには、無量の感動を覚える。そして、無限の真理を前にして、未だ到達していないものへの畏敬の念と共に、既に自らの理性によって切り拓いた道についての自己信頼をもつものである。芸術家の天来のようなものが、哲学者の中にもあることは、歴史上の真実である。

 西田幾多郎は、直接経験の事実の内に自己内在の神を観ずることが、神の実在を知る上で最も肝要なことであると述べておられるが、本書において追究してきたことは、自己内在の無限の生命を看取し、看取された永遠の今を、一行一行に託してゆくことであった。

 哲学随想は、随想の形で述べられる方がより広範囲のことを芸術的宗教的にも述べられるような哲学体系である。ある面においては、エマソンのエセーやモンテーニュのエセーなども、哲学的精神の産物であるといえるであろう。そして、本書は、「随想哲学」といいかえてもよい程に、哲学書に分類されるものであろう。

 哲学随想の形式を用いることで、哲学者の一瞬一瞬の息づかいと、一行一行の一喝ともなる哲理が如実に表現されているのではないかと思う。一節一節は、長い一呼吸のようなものであり、その時間は、常に永遠の今の連続である。真理の言葉を、禅語のように一句一句積み重ねながら思想を練り上げてゆくことは、哲学的禅定のような状態が必要である。

 その一節一節が独立した生命をもつものであり、さらには、一句一句が独立した公案をもつものであり、一句一句、一節一節を、そのまま完成したものとは考えずに、一つの問題提起として、さらに思索を積み重ねてゆくことが肝要であると思う。

 また、一転語の中にも真理はあり、逆説のようにして、真理の真髄が語られることもある。さらには、根本的な問いを投げかけ、それに対して、信念をもった、その機に臨んだ応えを文章にすることによって執着を断ち、さらなる真理の大海へと精神を飛翔させることもある。

 このようにして、一節一節が一冊となって生命を得た。さらには、やがて、幾冊もの書となって生命を得ることもあるかもしれない。それらの内容を、部分として細かく観照することも、全体として大局的に観照することも、また未だ未完の作としてさらなる体系を観照することも大切であろう。

 どうか、本書を機縁として、お一人お一人の精神が、より広い伸びやかな真理の大海へと漕ぎ出でられることを心より祈念する次第である。どのようなささやかなことでもよいので、いつでも私に声をかけていただきたい。それを契機にして、さらに真理が発展してゆくことを切に天に祈る。 













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