「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「成長しつづけてゆく精神と哲学について」



 たとえ数行の言霊であっても、偶然出来るものではない。その背後には、脈打っている精神の働きがあるのである。この精神を磨きつづけてゆくことが、哲学の営みの骨子である。精神は、哲学によって磨かれれば磨かれる程に、輝きを増してゆくものであるという原点があるのである。故に、短い文章であっても遺してゆけばよいのである。その中に、その時期の精神像というものを刻印してゆけばよいのである。

 精神は、磨いても磨いても、その奥なる輝きが出てくるものである。思索出来ることのみを文章につづれるのであって、そもそも自ら思索出来ないことは、文章にさえつづることが出来ないのである。自ら悟得しえたことのみを真に表現し、創造することが出来るのである。故に、そのようにして、自己の生を、証を刻印しつづけながら生きてゆくということは尊いことである。

 どのような古典の中にも、普遍的真理が込められている。しかし、真に己が精神の糧になったものでないと、精神は自ら創造することは出来ないのである。自己の創造作品の中に自然に顕れた真理があれば、それこそが、単にうわべの知識ではなく、精神の真なる実力となった知恵の光明であるといえるのである。

 哲学書というものは、自らの精神を導く一つの道標であり、或る時には精神の砥石となるものである。精神を磨きつづければ、必ずや、精神は向上してゆく。倦まず弛まず磨きつづけてゆく信念があれば、自然な底力をつけてゆくものである。

 故に、精神の糧を得るために、思想哲学の古典は学びつづけてゆけばよい。真に自らのものになるまで思索しつづければよい。思索しつづけてゆく中において、時折、自らの本性が顕らかになってゆくことがある。自らの素顔がその真姿を顕わす時がある。

 自らがこんな表現をもっていたということに、その思索を表現してみるまでは気付かないことが多い。自らの思想とは一体どのようなものであるか、と問われて、その答えを発見することは容易ではないが、自ら思索しつつ生きているのであるということを発見することは悦びである。

 精神は真理を求めている。真理によって真理が顕われてゆくことを望んでいるのである。真善美聖とは何かと言われても、その内容を深く思索することなく人生を過ごしてしまうことも多いであろうし、また、哲学者によってその答え方も違うことも多い。しかし、共通している普遍的な真理も多く、また、同様なことを、違った個性的体系の中で答えていることも多いのである。

 思索しつづけることそれ自体に価値があるのである。その時々の特定の答えというものはまた、永遠の課題でもある。思索する過程において様々な答えが出てゆくであろうが、その答えは過程にすぎないともいえるのである。

 精神は永遠に成長しつづけてゆくのである。幅が広くなったということも成長であるし、見識が正確になったということも成長であるし、表現が適切になったということも成長である。どこかが何らかの形で成長してゆくのである。

 精神を磨きつづけてゆくことは、永遠に哲学者でありつづけてゆくということである。精神の実力というものは、今生だけのものではないであろうが、肉体を超えて持ちつづけてゆくことが出来る価値であることは間違いないことであろう。精神の輝きというものは、確かにあるものなのである。磨きつづけてゆけば、必ず、相応の光を放つようになるものなのである。

 哲学者の言霊というものは、何故、歴史を超えて遺ることが多いのであろうか。たとえ、時代的制約があるにしても、また、後代、別の考え方が出てきても、相応のものが遺りつづけるのは何故であろうか。同時代に幾多の人間が居たのにもかかわらず、一握りの哲人の言葉のみが遺りつづけるのは何故であろうか。

 その書は読むに値すると、どの時代、どの地域の人々からも思われつづけるのは何故であろうか。或るものは翻訳され、或るものは現代語訳され、それでも遺し伝える価値があると思わせるものは一体何であろうか。学者をして、その原文に直接触れる喜びと感動を与えつづけるものは一体何なのであろうか。

 思索しながら生きるということは、存外、なされてないことではないだろうか。人間にとって根源的な生き方の典型であるにもかかわらず、職業として認知されにくい哲学という営み、思想という営みは非常に面白い。ソクラテスはどのような外面上の仕事をしていたとしても哲学者であったであろう。第一の職業は哲学者であろう。そして、実際に、後代、幾多の人々に生きる糧を与えつづけているのである。

 哲学は、頭で考えるとは限らないものである。時には心で感じとり、魂において感動し、思索するということもある。時には後退するように観え、時には同じ所に居るように観え、しかし、永い眼でみれば進んでいるのが思索の跡ではないかと思われる。

 自ら思索しつづけているという実感は、自己の綴った文章の中に刻まれている。また、読んだ古典の中にも刻まれている。古典というものは、一回読んでも、もう一度、同じ所を異なる思索的精神でもって読めば、新鮮な感動をもっていることが多い。思索的精神というものは、無限の道を歩んでいるのである。

 一冊の本になる程の思索をすれば、思索の過程において様々な人生の答えが発見出来るものである。しかし、発見の旅は永遠につづくのであろう。特定の哲学者と出会うということ自体が、人生、生きるに値することの証である。それは、特定の歌人や詩人と出会った時の感動と似ているものであろうと思う。

 例えば、私は既にカントと出会っているが、未だ知らないカントがあるのである。同じことがどの哲学者にもいえる。ヘーゲルを素晴らしいといわれる人に出会っては、自らもヘーゲルを、改めて学んでみたいと思いなおすのである。その一つ一つの道は、時には険しいと思えることもある。しかし、昇れるという確かな手ごたえを感ずる時もあるのである。ならば、昇れるという手ごたえのある時を喜ぼうではないか。

 精神は永遠に成長をつづけてゆくのであろう。肉体は二十代がピークとなるが、精神は、三十代に到っても、まだ成長しつづけているという実感がある。坂本龍馬やイエス・キリストの年齢を過ぎて、未だミネルバのふくろうは飛びつづけうるのである。青き春の時代は、哲学者にとっては永いともいえる。少しづつ昇ってゆく道であっても、その都度、自らの思索をなしてゆけば、知的生産をしながら、魂は成長しつづてゆくのである。

 一冊の本の分量の思索も、積み重ねである。はじめは一ヶ月にして一冊が出来るのではないかとも思ったが、何年もかけて一冊を創る方が、その道程により確かな真理が潜在していると思えるようになった。数多くの思い出にかこまれながら、魂の年輪を重ねてゆくのである。




〔 光明祈念歌 〕
年輪を
     重ねつつ生く
哲学の
道はるかなり
思索の途上
(貴)









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