「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「豊かな言霊の体系としての日本語文化について」



 私達は美しい言霊に数多く出会う。福澤諭吉の思想であっても、何と美しい言霊でつづられているのであろうかと、その文章に感動するのである。福澤諭吉が日本語で読めるというだけでも、日本人に生まれた価値があるということではないか。

 与謝野晶子にしても、斉藤茂吉にしても、短歌の微妙なニュアンスを日本語で学べるということは楽しいことではないか。一つでも多く、美しい日本語を発見してゆきたいと思うのである。数多くの言霊が、日本国の中に幸えて国家が出来ているのである。

 エマソンの日本語訳にしても、そのまま訳せば美しい新しい日本語が出来ている。日本語の語風がよく生かされている。ゲーテの日本語訳にしても、一種の詩人でもある方が訳されている。日本国の中に、ゲーテも、ショーペンハウアーも、カントも生きづいている。臨済録も、論語も、漢詩も、日本語を創造している。

 海外の原書を第一級の詩人が翻案して、新しい日本語文化を創造してゆくということは素晴らしいことである。海外の方の詩的言霊も、日本語に新しい境地を拓いてゆくものである。幅広い日本語空間があることが、私達の真の豊かさとなっているのである。

 日本語に習熟すればする程に、海外の詩文もよく観えてくるのである。適切な翻訳は、詩の創造である。ゲーテの生命が新たに日本語の中に幸えているのは、詩人の魂がイデアとしてあることであるから、不断に創造してゆく。

 詩文は永遠に生きている。永遠の生命を持っている。エマソンの日本語も重厚感のあるものであって、思想空間において、日本文化を高めている。自然に対して、精神に対して、深い哲理と瞑想を持つことを可能にしている。

 イデアを背後にもつ言霊が脈打っているのである。理念を背後に持つ言霊が脈打っているのである。私達は、無限無数の言霊の音楽の中に生かされているのである。言霊に触れて、魂が新生再生されてゆくのである。













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