「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「絶対無なる精神が現象世界を不断に創造してゆく」



 思想とは、現実を離れてあるものではない。現実を不断に創造してゆく根源的実在である。どのような現実も思想から生まれてゆくのであって、新たな思想が流出してゆく時、新たな現実が生まれてゆくのである。

 思想家哲学者というものは、自己の内に時代の精神を感得するものである。その精神は、意志をもっている理念的実在である。例えば今の日本国憲法に対する評価であっても、意志としての自然法の解釈、認識の発現であって、そこに脈打っているのは思想である。思想の中に、我々の現実は育まれているのである。我々がある法を肯定する時、それは、その思想を肯定しているということであるのである。

 現実の経済現象であっても、思想から離れたものではない。思想の果実がそこに顕れているのである。経済学の根底に、思想が実在することは真実である。

 思想の根底に時代精神があり、真理があり、宇宙を貫く法則の流れがある。すべての現象を創造しているものは思想であり、哲学であり、真理である。我々が偶然と思っているものも、法則を解明すれば、必然となって観える。

 全ての現象の内に展開している精神の摂理を観ずる時、限りなき静寂に包まれる。しかし、一つ一つの現象が、絶対無の自己限定として自覚される時、自己の内に、透明なる情熱を感じる。永遠の今の自己限定として、現象の背後に一なる精神を観得する時、一つ一つの現象は、現象であって現象を超えてゆく。一つの無の精神へと昇華されてゆく。一なる精神が多なる現象となって顕れ、全ての現象が、一なる真理に媒介されている。

 どこまでも個々の行為を掘り下げて、深く観じていった時に、個々の行為は、絶対無なる一者の具体的顕現であることに気づかされるのである。故に、一つ一つの行為に意義がある。一つ一つの言葉に意義がある。一歌一句一詩に意義があり、それをさらに統一する精神の働きがある。

 あらゆる現象は、思索されなければならない。思索されて、真理へと昇華されなければならない。思想の形をとって生命をもつ所にまで活かされなければならない。現象の内にある理念を一つ一つ洞察してゆけば、理念の体系は自ずから創造されてゆく。理念の体系の中から、真理に則った新しい現実がさらに生み落とされてゆく。

 科学でも同じことが実践されている。発見された思想的法則は、さらに応用発展されて、様々な新たな現実を創り出してゆく。真理が現実を創造してゆく。理念が現象を創造してゆく。思索された思想は、時空間を越えてゆく。一つの思想が、十年後に理念を実現化してゆくこともある。百年後に理念を実現化してゆくこともある。或いは、千年後に再発見される真理もある。

 思想書の中に、様々な真理の発見を込めておくことである。真理発見の悦びを込めておくことである。その中に、金剛石の如き価値が宿っていることもある。すべてが肯定されなくとも、部分的に様々な真理が顔をのぞかせていることも多い。たとえ部分的にしか採用されなくとも、そこから、本質的真理が汲みとられることも多い。

 大いに思想的情熱をもって語られたことの中には、時代を貫く精神が宿っていることが多い。魂の奥底から共鳴し、感動するものの中には、時空間を超えて働き出す思想が込められていることが多い。

 もしも一人一人の精神に一喝を与えることが出来たならば、思想はその使命を果たすことが出来る。考える機会を与えることも愛である。考える情熱を与えるのも愛である。その中に救いへの契機があり、昇華への契機があるものはさらによい。魂が全身全霊をもって思索してゆくことが肝要なのである。

 真理探究への情熱と信念が、神への愛の証であり、人間の本質的価値の根底にあるものである。思想を通して、言語を通して、魂の気迫のようなものが伝われば、言外の以心伝心であり、不言の教えである。無言の内に千言があり、一言の内に、創造的無が実在している。

 一人一人が観得した真理を、その都度表現してゆけば、自ずから道を継ぐ者が現れてゆく。道は思想によって拓かれてゆく。哲学によって道は創造され、形あるものになってゆく。学び思索されたものは、決して無駄にはならない。精神の永遠のモニュメントとして遺ってゆく。

 精神は、その都度その都度、生命をもっている。その直観の頂をつなぐものが歴史である。魂の軌跡である。同一精神は、本来不死である。それは、永遠なる魂の指紋をもっていて、十年経ても、二十年経ても、同じ刻印をもっているものである。

 その都度、様々な思想、真理を吸収しながら、現実の中にさまざまな現象を学び、その背後に、理念、法則を思索しながら、さらに、止揚前進してゆくものである。その意味において、志は不滅である。不死である。本来的に永遠の魂をもっているものである。

 魂を崇高なものへと飛翔させてゆくことこそ、哲学の営みの骨子であり、思想の営みの根本である。そのためには、思想的感動が要る。たえざる思想的発見が要る。たえざる学びと思索の積み重ねが要る。随時のインスピレーションが要る。天の摂理の発見顕現がいる。

 真理は永遠にありながら、不断の創造をしつづける精神である。自己の精神の内奥にあって、常に新たなる発見をもって、清水を流してゆく光明である。たとえ表面をどのような沼がおおうとも、清水は絶えず湧き出してくる。魂の底の底から湧出してくる本源的力である。

 真理は常に待っている。新たに発見され、さらに創造されるのを待っている。我々が、意識的に、又、無意識的に思索し始めると、真理の方から呼応してくるものがある。古今東西の古典の内に眠っていた理念が働き出す。復活し、新生してゆく。光を創造し、育み、さらに、全てのものを昇華してゆこうとする。

 我々は、現実に敗北してはならない。現実の中に理念を実現し、勝利し、成功してゆかねばならない。一時の沈黙も、新たなる創造を待っている。どのような現実の中でも、理念は実現されてゆく。

 自己の内に、絶対無なる精神が息づいているのを観ずる時、我々は不断の思索を続けてゆくのである。その考えつづける過程において、必ず花は咲いてゆく。念ずれば必ず花開き、精神は大道を拓いてゆくのである。その大道とは広い道であった。無限の道が、あらゆる方向から開拓されているのである。

 我々も、様々な過程を発見してゆくだけの心の余裕を持たなくてはならない。現象を統一する精神のための時間を、「永遠の今」として持たなくてはならない。思想を育みつつ生きてゆくのが、思想家の道程である。

 思想の花、哲学の花、真理の花が咲いていれば、それが春の訪れである。真理は花開くものである。人生の木は、もともと真理の花をつけるものが多い。世界という大地に根付く木に開く花として、真理は大地から直接に思索されたものがよいのである。天然の美しさがそこにある。人為を極めた、その上での天然の美が、渾然一体として顕れている。

 魂は常に、「永遠の今」に臨在しているのである。




〔 光明祈念歌 〕
見えるもの
     見えざるものに
育まれ
無を実現す
自己の内流
(貴)









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