「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「内在する真理の鉱脈を自覚し創造することについて」



 自己に深く穿ち入れば、真理の鉱脈に達するものである。真理と一体となった自己こそ、本来の自己である。本来性を回復した自己である。自己の精神の内奥を究めてゆくことが、哲学の本来なすべきことである。

 実に神仏の生命は、自己の内奥において把握することが出来るのである。哲学的思索であっても、自己を真理と一体化させる作業であるといえるのである。思索することによって、真理へと到達することが出来るのである。思索するということは、知的直観をさらに深め、その根底を見い出すということである。

 真理とは、発見されるものである。見性されるものである。さらにまた、湧出してくる生命である。世界の本質とは、真理が展開しているのであって、本来理念なのである。理念的実在に生かされているのが、我々の実存である。世界の本来の姿は、真理の顕現である。真理の応化である。どのような現象も、真理なしには存在しえないのであり、真理の展開なのである。

 現象を現象とだけ観れば現象であるが、その背後にあるものを思索すれば、真理なのである。法則は、多なる現象の支柱である。一つの法則が多様に現れている。多様なる現象は、一つの法則に統べられている。色即是空、空即是色である。空とは、本来法則であり、真理であり、理念であり、実相である。本源的生命が多なる現象として展開しているのであって、我々は、哲学思想の内に精神統一を深くして、本来の生命に一体化してゆくのである。その時期、あらゆる現象が、真理そのものとして観えてくるのである。

 現象との出会いも、一期一会である。真理を観る眼が変われば、観える現象も変わってゆく。現象は、精神の色あいによって無限に展開してゆく。現象の背後に真理を発見出来た時、現象は、真理となって観える。しかし、真理が思索されていなければ、現象を深く観ることは出来ない。

 本来、思索する精神の軌跡こそが、生命の創造として現れてゆく。深き知的直観があれば、真理が現前してゆく。真理が観じられる時、精神は、本来の法界に遊んでいる。どのようなものの中にも真理を発見してゆくことが出来るし、どのような現象も、真理を導くためのよすがとなってゆくのである。

 本来の真理の世界に立脚して物事を判断してゆけば、全ての物事は、真理の光を放ってゆく。思索された真理は、時空を超えてゆく。歴史を超えて遺り、伝えられてゆく。真理を発見すること、見性することは、本来の精神の姿であり、そこから、全てのものが位置づけられてゆくのである。

 真理が精神の内奥から無限に流れ出してゆく時、我々の生命は無限なるものとつながっているということに気づかされる。肉体的自己の内にありながら、肉体的自己を超えた真理的自己を発見せざるをえない。肉体的自己を通して、真理的自己が無限に自己顕現しようとしているのである。言葉は真理の形であり、真理の自然な外面である。真理は発見されるのを待っている。探究されるのを待っている。

 人生には、時というものがあり、機というものがあり、人生の折々において新たなる真理が発見されてゆく。和光同塵として、その真理の光がやわらげられていても、それ故にこそ、現象の中に真理が顕れてゆく。塵と観えるものも、真理の光の流出であり、顕現である。大道の実在は、ここにある。大道と一体となってゆくことこそ、本来の姿であり、幽なるものが現象化して観えてゆくものである。

 人間は真理に導かれなくてはならない。真理に照らされなくてはならない。真理が人生の内に発見されなければならない。観じられ、実現されなければならない。真に観ぜられたものは、真に創造されてゆく。創造されたものは、真理の顕現である。思索された過程は、真理の自己限定であり、真理の自己実現である。

 内奥なる真理は無限である。無限なる奥行がある。そして、幅があり、道筋がある。ここかしこにも思想的真理が結晶している。ここかしこに思想的真理を発見してゆくことである。そして、それを土台にして、さらに思索してゆくことである。

 歌われた歌が、その人自身のもの、その人自身の表現、創造であるように、思索された真理は、その人自身のものである。思索された過程は、その人自身の人生である。人生は真理の顕現する舞台である。誰もが同じような形式の人生を送っている。その中で発見された真理は人それぞれであり、発見された真理こそが、人生の実質的価値を決めてゆく。

 思想を創造するということは、一つの行為であり、行動である。歴史の創造に参画することでもある。思想を創造するということは、真理を発見し、見性してゆくということであり、見性された真理は、表現されれば、外なる影響力をもってゆくのである。

 理念は、天啓の如く知的直観によって発見され、顕現され、著述されてゆくものである。真理的自己の顕現が、そこに永遠に封印されてゆく。理念的自己の輝きは、必ず、書になって遺り、永い影響力を持ちつづける。著述する過程において、真理は発見されてゆくものである。鑿によって刻まれるように、真理は、具体的な外形をあらわしてゆく。

 永遠普遍なるものを自己の内に発見してゆくことは、絶対無を自己の内に発見してゆくということであり、絶対無とは、真理の別名である。真理の究極的な表現形式が、絶対無なのである。

 真理は見性されるものである。知識はそのための地図である。実際に真理を観るのは、自己の理性である。実際に真理を語るのは、自己の理性である。理性が理念を著述する以外にはないのである。叡智界の自己が、本来の姿を示現してゆくのである。現象の中に理念を実現してゆくのである。その理念の実感を大切にしてゆかなければならない。

 表現されても、表現されていないものがある。つかんでも、つかみえていないものがある。それを、さらに探究してゆくことである。様々な機に応じて、真理は感得され、より内奥の姿を幅広く示現してゆく。示現された真理こそ、本来の自己像であり、真姿である。

 真理を探究してゆく道は、永遠である。故に、探究された真理の感動は、その都度、遺しておいた方がよい。真理の峰を結んでゆけば、一つの世界観が生まれてゆく。真理の一つ一つが、世界の表出である。知的直観から天然の輝きが生まれる。

 真理が流出顕現していれば、それが天命である。感得された真理こそが、自己が観た、創造した神仏の姿である。生命がそこに脈打っている。真なる哲学的営みとは、生命の創造である。




〔 光明祈念歌 〕
花 観ても
真理を奥に
観得す
永遠にある
理念の花弁
(貴)









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