「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「創造された美の背後にある生命の煌めきについて」



 様々なものの中に美を発見してゆくことも、見性の道である。地上世界にも様々な美が存在しているのである。自然の内にある季節の移り変わりの一つ一つの中にも、無限無数の美があるといえるが、人間が創造する芸術の中にも様々な美がある。

 一つでも多くの美の可能性を育ててゆくことである。積極的に美を発見しようとしてゆけば、少し足を伸ばすだけでも、そこに美の世界が開けているものである。様々な美の世界を開拓してゆくことも道である。美の世界を創造してゆくことも道である。詩という部門をとってみても、美の可能性は無限にあるのであって、同時代に多くの美学者が住んでいることも忘れてはならない。

 詩を真に理解するのも見性体験である。短歌や俳句の内奥世界を開拓してゆくことも日本固有の見性体験への道であり、同時に、世界的普遍性をもたせる見性体験への道である。言葉の芸術だけでも、これだけ無限の可能性があるのである。

 思想も言葉で表現される一つの芸術である。思想の叙述とは、美の創造であり、思想の内実とは美である。何か思想にするべき内容が心奥にひらめくということは、それだけでも美しく生きる価値のあることなのである。

 思想を育むということは、それ自体が意義のあることである。どのようなものであれ、創造されるべき思想があるということは、それだけで意味のあることである。真理を思索する精神の働きがありつづけるということが、価値のあることなのである。何らかの形で思索が前提していれば、真に生きた使命があるのである。

 思索の過程そのものに道があるのである。腑に落ちた真理があれば、それが見性体験である。古今東西の名著の内、真に合点がゆき、理解がすすみ、腑に落ちたならば、それこそ仏性の呼応であり、神性の呼応であり、理性の呼応である。内にある真理の本性が目覚め、新生しているのであり、さらには、創造活動をしようとしているのである。自ら感得した所のものを、自らの魂の言葉によって表現してゆくことが創造である。

 真理は真理を呼び、真理を創造してゆくのである。真理を真に創造するものこそ、真なる如来である。真理を真に観照する者こそ、真なる神仏へと到る道である。真理を真に思索することは、真理を真に創造することである。真に思索されたものは、自然に独特の創造行為を生んでゆくのである。自らを源として、真理の泉が湧き出てくるのである。真理の大河が流れ出してゆくのである。

 エマソンは遠くに求める必要はない。エマソンはここに居る。エマソンが感得した同じ真理を感得し、別の角度から、ニュアンスの異なる叙述で表現することは出来る。エマソンのエッセイをつづることは出来るのである。本当は、真理を思索することにおいて、エマソンと共に暮らすことが出来るのである。

 西田幾多郎も、遠くに求めるものではない。本当は、自らの内に既に息づいている哲学的生命である。内なる西田幾多郎が目覚めてくるのが、本当の哲学者というものである。その時代、各人各様の西田幾多郎があってよいのである。

 一人一人の心奥に、確かに理性がある。真理を直視する眼があるのである。真理そのものの自己があるのである。真理そのものの自己が、外なる真理に呼応しているのである。外なる真理に刺激されて、創造的意志が自らの内に湧いてくるのである。この創造的意志を活かしてゆくことである。常に創造してゆかんとすることである。創造しつづける限りにおいて、すべてが新しくされるのである。新しき生命が吹き込まれるのである。

 真理は、不断の創造の中に宿ってゆくものである。創造がなされる所には、天の摂理が働いている。創造されたロゴスの内には、確かに人為を超えたものが顕れているのである。真なる創造には、生きた証が刻印されているのである。何かを思索することそのものに価値があるのである。真実、真理というものを観じつづけるということに意味があるのである。

 生きれば生きる程に、様々な角度から真理が観えてくるものである。様々な哲学者や芸術家が真理を代表している。そして、真理の可能性に道をつけているのである。ヘーゲル哲学があれば、ショーペンハウアー哲学は不要であるかといえば、そうではない。ショーペンハウアーがおられる分だけ、真理の可能性は広がっているのである。

 シェリングやフィヒテを、充分にショーペンハウアーが理解しなかったからといって、ショーペンハウアーの価値が下がる訳ではない。カントを真に理解しながら、真に独自の思索を独自の言葉で展開されたからこそ、ショーペンハウアーの道が拓かれたというだけである。そのような道は、本来、拓かれるべきであったのであるし、その真価は、数百年、今後、数千年の射程をもつことであろう。

 カントは今でも生きている。カントの門をくぐることによって、魂は、その都度、新生してゆく。臨済も同じである。臨済は今でも生きている。臨済の法は、法に執われない法である。外なる仏に執われない道である。臨済の門をくぐれば、その都度、魂は新生するのである。古今東西の哲人は永遠に生きていて、今でも、未来でも、一人一人の魂を新生させる器となっている。無限に学びながら、無限の悟りを得てゆけばよいのである。

 日々、魂は得る所があるものである。思索されるべき真理の大海が眼前に広がっている。真理の法雲の中に生かされているのである。真理を発見し、真理を創造してゆけたならば、そこに道が成るのである。真理の叙述過程に、いかに生きたかということがあらわれるものである。

 真理の一行は、生まれるべくして生まれているのであって、その背景には、無数の生命の営みがあるのである。一行一行の背後に、人生の真実が隠れているのである。様々な生命の煌めきが、一行一行の中に凝縮されてゆくのである。




〔 光明祈念歌 〕
観るものと
観られるものは
一つなり
真なる創造
思索と軌跡
(貴)




〔 光明祈念句 〕
天の川
桜の新芽
テニスする
(貴)


黄梅の
花は二月に
輝きて
(貴)



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