「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「限りなく美しい世界を育み創造しつづけてゆくことについて」



 美しいものは実在している。無限無数の美学を伴って、我々を様々な道に誘う。様々な美を発見することによって、魂を成長させてゆくことも道である。例えば、イデア論に基づく美学も一つの美学であるが、また、それを中心軸に据えるにしても、他の美学を学んでおくこともよいのではないかと思うのである。

 カントの判断力批判にしても、一つ一つ読み解いてゆけば、プラトンとはまた違った視点から、様々な美的判断として自覚することが出来る。一つの美学的世界が拓かれるということは、それだけ人生を豊富ならしめてゆくことになるのである。美の奥行きを究めてゆくことによって、人生に新たなる光をあててゆくことも出来るのである。

 人間として生きてゆく以上は、世俗的なことに流されてゆくこともあるかもしれないが、その中で、超然としていようではないか。その波間の中に、変らぬ理念的なるものを探究してゆこうではないか。決して流されることのない美的時間と空間を創り出し、それを成さしめている世界を発見してゆこうではないか。

 人生は、様々な崇高なるものに囲まれて生かされているものである。大自然を眺めていても、人間の内に既にある自然法を眺めていても、外に実現した理性の法(自然法)を眺めていても、そこに、美の世界が展開されていることに気づく。

 法律等の一つ一つであっても、よく観れば美しいものである。世俗を規律する法には、本来的な美が内在されているのである。それは、人間がどれだけ美の精神を内在させているかということの証明である。人間の内なる美しさが、人間を規定する外なる美しさとして顕れているものである。

 外なる法といっても、人間の内なる自然に異なったものは実現されていない。人間の内に実在する理念が、何らかの形で顕れつつあるものであるといえる。

 本来の光は、政治学の中にも、法律学の中にも、経済学の中にも、教育学の中にも、芸術学の中にも、科学の中にも実現されているし、理念的なるものは、様々なものの中に顕現されているといえる。様々な分野の真理を学んでゆくことによって、我々は、理念的世界を広げて、より真実在にかなう精神世界を創造してゆくことが出来る。

 魂は、日々流転し、生成発展している。一時的に停滞したり、退化したりしたようにみえるものでも、必ず復活し、新生してゆく。人間の生命力は、大局的にみてゆけば、信頼に足るものである。我々は、ゲーテのいったように、様々に迷うこともあるが、前進しつづけてゆく魂は、様々な経験を基にしながら、深さと広さを身につけて、勝利をつかんでゆく。

 ベートーベンの合唱にしても、くり広げられる弁証法的発展の世界は、何と雄大であることか。そこにも、確かに人生の道が顕れている。じっと聞きこんで、親しい友人と話をしていると、新たな友情を育んでゆくに足る力が秘められている。友情も、このように様々な場面を乗り越えて、弁証法的に発展して、歴史の風雪に勝利してゆきたいものである。

 人生は、様々な場面において、光を湧出している。様々な出会いから、様々な角度から、思ってもみなかった新世界、新境地が拓けてきて、驚くものである。我々は、深い天の配材に感謝しなければならない。それぞれの人が、それぞれの持場で、インスピレーションを受けながら、天命を実現している。そして、インスピレーションとインスピレーションが互いに交錯しながら、新しい世界を創り出してゆくものである。

 出会いというものは、その人の新局面を発見することによって、再創造されてゆくものである。一度の出会いも、後から出会いが生まれることによって、さらなる出会いにまで高められてゆくこともある。後からさらなる付加価値をつけてゆくこともあるのである。そして、全体として、一なる価値を、時代精神を実現してゆけばよいのではないだろうか。

 一人一人が、天命を受けて生かされているのである。その生命の主は、超人格的実在である。人格を超えたものに、絶対無に我々は生かされているのである。一つ一つの直観を大切にしてゆけば、いくらでも道を深めて広げてゆくことが出来る。

 そして、魂の飛翔する世界は、決して一面的ではない。日々日々、局面局面において、異なっているものである。異なる世界を開拓してゆく内在的意志が働いてゆくものである。深い所から、その都度、天命がこみ上げてきて、天の摂理を実現してゆくのである。一人一人が内なる天命の声に耳を傾けつづければ、全体としても、国家としても、世界としても、天の摂理が実現しつづけてゆくものである。

 生かされている生命があり、働かされている生命が存在するのである。一日一日の天上的なる天命の実現の積み重ねが決して無駄になることはない。深い所から天命が成就されてゆくのである。様々な古典の中に永遠に刻印されている光も、一つ一つ丁寧に解いて、現実に射照らしてゆけば、無限の光明を本来放つといえるものである。

 小林秀雄のモーツァルトやベートーベンの語りであったとしても、良識の一つとして尊重しながら会話してゆけば、音楽論一つの中にも、人生を様々に映してゆくことが出来る。最頂上か最低か、というものではない、実質的価値があるものである。中庸の価値というものが、その都度あるものである。それに対して、足ることを知ればよいのである。

 決して真剣に生きた生命は、無価値となることも、マイナス価値となることもない。相応のプラスの価値を、光を、その都度刻印しているものである。

 和辻哲郎の風土であっても、じっくり読み込んでみるくらいの余裕がなければ、哲学の味わいを人生の中に発見することは出来ない。もっと余裕をもって、人生を眺めてゆくべきである。そこから様々なるものが生まれている。人生という木につけられた果実は、理念的価値を分有しているものである。その一つ一つを究めてゆくことも、人生の実質を創ってゆくことになる。

 美しい人生を創ってゆくということは、まず、美しい人生を発見してゆくということであり、美しい世界を発見してゆくということである。真善美聖、様々に様々な切り口がある。人生という舞台の中には、様々な価値の可能性があることを、様々な価値の創造者達が教えて下さる。

 我々が、その都度、至上の価値としていたことも、人生の時期によって様々に異なってゆくものである。魂の本来の内的空間は限りなく広い。限りなく広い魂の器をつくるということが、モチーフの一つなのである。その中には様々な価値が幸えることを可能とするのである。

 ルソーの学問芸術論の中でも、徳に対する新たな発見があり、ギリシャ・ローマの歴史に対する新たな発見がある。独自の発見があれば、感動があれば、インスピレーションがあれば、遺ってゆくものである。

 自己の眼を磨いてゆかなければならない。人生と世界を映す透明な鏡となってゆかなければならない。美しい世界を、より芸術的な世界を、そこに映してゆきつづけなければならない。眼と精神と心を磨きつづけてゆけば、天上的なものは、常に側近くある。

 神は常に臨在している。神の御言葉は、哲学書、思想書、芸術書の中に既にある。確かな言葉と共に生きている。そこからこみ上げてくる内なる生命は、新しい理念の言葉となって幸えてゆくのである。  限りない美の世界に向けて、魂を育み、織りなしてゆきたいものである。



〔 光明祈念歌 〕
無限なる
生命の祈り
古典織る
精神磨き
内奥に入る
(貴)



〔 光明祈念句 〕
風花の
舞う姿みる
君の声
(貴)



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