「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「自己の自然の内奥にこそ天の理法が実在する」



 自己本来の自然を積極的に回復し、顕してゆくべきである。天来の自然の道が、もともと人間には備わっているのである。それは、外から与えられるものではなく、また、外から加えられたり、差引かれたりするようなものではない。無限の天地の理法が、人性の根底には宿っているのである。この自然をいかに発現するべきかということを考えて、常に哲学をしてゆかなくてはならないのである。

 真に哲学をするということは、他者の知識で自らを縛ってゆくことではなくて、外なるものから積極的に自らを解放してゆくことなのである。本当には自分自身の天真を縛るいかなるものもないのである。あるとすれば、それを自分自身が受け入れているだけなのである。自己限定しているだけなのである。故に、まず、自らの心のもち方をこそ変えてゆこうではないか。本来の天真爛漫な自己から遠ざかってしまっている要因を考え、それを取り除いてゆこうではないか。

 人間は、本来、いかなる束縛からも自由になることが出来るのであり、精神の王国を築くことが出来るのである。いかなる環境におかれたとしても、精神の王国を築き、精神の王国に飛翔する自由を有しているのである。本来の哲学の営みとは、自らの精神の王国を築いてゆくことにあるのである。自ら築き上げた世界に住むことは、万人に可能なのであり、理性を有しているということは、本来の固有の理念の王国が、自己の精神の内奥に実在しているということなのである。築き上げるということは、限りなく自己の自然に則してなされるべきであり、自己の天来の輝きに則して行われるべきである。

 本来、精神の働き、理性の輝きは、自由自在なのである。人間にとって最も自在なるものこそ、理性の働きであり、どのような状況下においても、理性が思考停止しているような状態は、自己にとって自然な状態ではないといえるのである。理性がいか程に活発に働いているかということも、本来の精神の王国が守れているか否かを見極める点であるといえるのである。どのような、一見権威があるとされるものであっても、それによって自己の理性を停止させるようなものがあったとするならば、そこから自由になる方がよいのである。

 理性が活性化すること、すなわち、自己の天然の理に基づいて主体的に考えることが出来ることこそ、真なる人間の尊厳を裏うちし、哲学的幸福を得るための指標であるといえるのである。自らの理性というものも、積極的に活性化させようとしなければ、その働きも退化してゆく所があるのである。鍛えれば鍛える程に働きを増してくることが、本来の理性の特質であるともいえるのである。

 本来の理性とは、天来の輝きに溢れているものであって、理性の営みそのものが、固有の価値を創造してゆくようなものである。最高度に理性を輝かせるということは、古来より哲学者が目差してきたことであるが、非常に天上的な発想の一つであるといえるのである。

 主体的な思索を重視してゆくということは、哲学の本質であり、学問の本道である。主体的な思索なくして、いかなる真理の発見もないであろう。外なる規範に執われずに、自らの内なる理性に忠実に天来のものを発見してゆけば、そこに固有の道が生まれてゆくものなのである。

 本来は、個性の数だけ道があるものであり、一人一人の内には無数の道が潜在されているものなのである。しかし、多くの方々は、自己固有の道というものを深く思索しつづけることなく、現象的な生き方をしてしまうことになりがちなのである。自己にとっての固有の道は、深く掘り下げてゆけば、永遠普遍の大道へとつながっているものなのである。しかし、形の上から永遠普遍の大道を求めることによって、自己にとっての固有の道を忘却していると、永遠普遍の大道も、自己疎外的なものになってしまうのである。

 まず、自己の根底にどこまでも穿ち入ることである。自己の内奥に独自の理念を発掘してゆくべきである。自己の内に宿る天来の法則を発見してゆくべきである。自己がそれによって活かされている天地を貫く理法を発見してゆくべきである。最も個性的なものこそが、掘り下げられた時に、最も普遍的なものとなってゆくのである。自己の内に輝いて止まない理法の輝きが観えたならば、それをどこまでも発掘してゆくべきである。自己がそれによって存在している根本のものを見据えてゆくべきである。

 自分らしく生きることが最高の美徳であり、自分らしさを見失っては、自己天来の道からも遠くなってしまい、あげくの果ては、自己を狭い枠の中に縛ってしまうことになるのである。自己の内に開かれている世界というものは、本来、無限に広いものなのである。何ものにも縛られない自由の天地が開かれているのである。この自由の天地に飛翔させてゆく鍵となるものが、哲学的営みなのである。

 哲学者の数だけ哲学は有り、独自の哲学的宇宙が無限に開けているのであって、歴史上の哲学者は、誰一人として全く同質の哲学的宇宙を有っていないということが、哲学の本来の自由自在さを示しているといえるのである。故に、出来るだけ自己固有の哲学的宇宙を開拓してゆくべきであり、その中に、自分らしさを昇華してゆくべきである。自分らしい大道というものを発見してゆくべきである。形に執われずに、実質的真理を開闢してゆくべきである。

 自己固有の自然というものは天から与えられたものであって、先天的に有しているものなのである。その中に、本来、上下も善悪もない。全てが、本来、至上である。真に至人に到るということが哲学の実質であり、自由自在なる理性の輝きこそが、至人の生命なのである。

 理性の奥には、必ず天の摂理がある。本来の理性は、天の働きの一部としての理性である。よりよく天の一部として働くことが出来たならば、より自由に生きることが出来たといえるのである。天来の光明の流出こそが、本来の理性の働きであり、理性とは、働けば働く程に、天の摂理を示現してゆくものなのである。

 真なる理性の働きというものは、自己根底にある天の摂理と一体となってゆくことによって、自然に育まれてゆくものである。天の摂理が、万人の個性の根底には横たわっているのである。自己の自然にどこまでも忠実になる時に、真なる自然の法則に行きつくのである。真なる自然の法則に則って思索された哲学こそ、真に多くの人々の糧となる永遠普遍の理法の一部ともなりえるのである。

 自分らしさの奥に、常に天の理法を深く観じてゆくことこそ、哲学者の天来の使命であるといえるのである。



〔 光明祈念歌 〕
自己の内
天来の理を
発掘し
宇宙自然と
一つにならむ
(貴)



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