「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「哲学が背後に持つ宗教的精神について」



 哲学の核心にあるものは、宗教的核心にあるものと同じであり、芸術的核心にあるものと同じである。この根底理念を大切にする所から、真の哲学が生まれてゆくといえるのである。その背後に崇高なる宗教的直観を失った哲学は無味乾燥なものになりやすく、核心となる宗教感情が豊かであればある程に、哲学の内容は深められてゆくといえるのである。

 故に、哲学を学びながら、様々な宗教を学び、様々な宗教を学びながら、それらを理性的に哲学的に洞察することによって、客観的真理というものを柔軟に洞察してゆくことが出来ればよいのであるといえる。そして、真なる哲学は、真なる宗教精神に裏うちされているものであって、哲学という型を通して、純粋なる宗教精神を学ぶことも出来るし、真理としての神の生命に帰一することによって、実質的に信仰心を全うしてゆくことも出来るのである。

 故に、哲学書の理想は、人々の宗教的欲求をも満足せしめるものであって、或る時には、宗教に代って、宗教的精神を磨いてゆくに足るものなのである。真に自己内在の理念を磨いてゆくことが出来、自他一体となり、自他一体として絶対者と一体となる境地を全うしてゆくことが出来たならば、その哲学は、宗教的救済をも全うしているといえるのであり、効果として宗教的救済と同じものを与えることが、哲学の本来の眼目なのであるといえるのである。むしろ、概念的客観性がある分、より信頼出来る真理把握の道を開拓してゆくことが、哲学には求められているといえるのである。

 ローマ時代のストア哲学にしても、実質的に宗教的救済力をもっていた哲学であるということが大切であって、アウレリウスの「自省録」などは、宗教的真理ともいえるような内容が、哲学の形式を用いて語られている所が、この本の広さを創っているといえるのである。

 「善の研究」も、その真髄は宗教的真理の客観的把握にあるといってもよい程に、その実質は宗教書である。哲学的な参考文献のあげ方と、論証の仕方が論理的に描かれているということである。宗教的境地が分からないような方にとっては、その哲学的魅力も充分ではないかと思える程に、宗教的境地について様々な角度から論説してあるのである。神仏についての本格的な概念的探究がなされており、概念的に叙述することによってしか表現しえない世界を如実に顕わしているといえるのである。

 新時代の哲学の潮流は、宗教的精神の哲学的復興であり、宗教的真理の哲学的普遍化である。抽象化されることによって、より永遠普遍化された真理が叙述される所が、哲学的精神の持ち味である。同時代には、様々な神秘的宗教家の方々がおられたであろうが、その宗教的精神がより普遍化された形で、独自の思想的真理にまで昇華されて叙述されることによって、歴史の風雪に耐えることが出来たものが、哲学的古典の大部分である。

 プラトンであっても、同時代の様々な神秘宗教家の影響を受けて、その思想が形成されたといえるであろうが、哲学書という形式を通して、その本質的な部分を、プラトンの眼を通して様々に垣間見ることが出来るのである。また、プラトンの眼を通すことによって、それらの神秘宗教家達の語られた思想の実質をよりよく把握することが出来、より相対化し、客観化して観ることが出来るといえるのである。

 故に、理念的叙述というのは哲学の核心部分であり、たとえ、カントのように、限定的に考えて哲学体系を構築する場合であっても、その本質は、宗教的真理そのものであるといえるのである。カントが永遠普遍の道徳律について語る時は、宗教的真理の叙述がなされているのと同じ感化を与えるのであり、結局のところ、魂の不死と神の存在と自由の存在を確信することになり、そこから様々な概念的真理を体系的に把握することが出来るのである。

 ヒュームやジャン・ジャック・ルソーの哲学的直覚と思弁の内容も、実質的に、宗教的直覚と思弁と同質のものがあり、独自の天啓的真理が輝いていたのであり、それをカントが体系化することによって活かしたといえるのである。その意味において、ヒュームもルソーもカントもヘーゲルも、全て宗教的素地がある方であるといえるのであり、それぞれに独自の直覚的真理を叙述しているといえるのである。

 狭い意味での宗教の形式に執われることなく、理念そのものの全体像をより広く穿つことによって、理念をより多重的に把握することが出来、その内容を人類に開示することが出来たといえるのである。故に、哲学的に生きるということは、限りなく宗教的に生きるということであり、同時に、一定の宗教の枠を超えて、より自由で、柔軟で、客観的な精神の中で生きることが出来るものなのである。

 理念というものは客観的実在であって、この宇宙を貫いて永遠普遍なる一大体系を、より如実に顕わしてゆくことが哲学の使命であり、一面においてであっても理念の真姿が顕れたならば、それだけ人類の歴史は光明に包まれるといえるのである。哲学というものが、より宗教的精神を深めてゆけば、哲学による魂の救済というものは出来るようになり、より高尚なる魂となるための導き手となることも出来るのである。

 理念的生命が活き活きと脈打っていることが、哲学の真価を決定するのである。直覚された真理の質そのものが哲学の背骨となり、その真理をより永遠普遍なる姿にならしめるものが、本来の思索のあり方であるといえるのである。

 真理というものは、無限に広いものである。この前提に立って無限の可能性を発掘してゆけば、無限なる道が開かれているのである。ここにもかしこにも真理が実在しており、無限無数の真理に生かされているのが人間の生命の本質なのである。この広さを創ってゆく営みこそが、哲学の王道である。あちらにもこちらにもある真理の輝きを、一つの体系生命として著述することが哲学の営みである。

 人間は、哲学を通して、思想を通して、本源的なる理念と一体となって、その生命を復活せしめてゆくことが出来るのである。本源的なる生命の新生こそが、哲学者が与える本来の愛の形なのである。より豊かなる人間観と世界観を呈示することが出来たならば、哲学はその本分を全うしているといえるのである。そして、幾多の哲学的生命によって、理念の大樹が培われ、開示されてゆくのである。



〔 光明祈念歌 〕
概念に
より 普遍化す
思想には
脈々と生く
光明のあり
(貴)



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