「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「思索そのものの中に実在する本源的価値について」



 どのような思想書、哲学書であっても、その中にいかなる真理を発見するかということは、各自に任かされている。各個人の個性的な理性の輝きに応じて、無限の変化をみせることが出来るものが思想書の奥深さである。故に、思想書を読みながら、独自の思想を発見してゆくことこそが、真に哲学者的な読み方であるといえるのである。

 同じ書であっても、くり返し読んでゆけば、自己の精神の思索に見合った発見がなされてゆくものである。自己の精神がより充実した深まりを見せれば見せる程に、それに見合った思想的真理が輝いてくるものなのである。故に、知識として学ぶのではなくて、思索として理解することが大切であり、一つの思想が、様々な思想を生み出してゆく契機となることが肝要であるといえるのである。

 思索的理性を活性化させてゆくということは、それ自体に尊い意味があるのである。思索的理性を活性化させてゆけばゆく程に、魂は、より崇高な存在となってゆくのであり、より理念的実在に近づいてゆくのである。

 考えるということは、魂にとって最高の営みであり、天上的な思索をつづけることが出来るということが、神々の世界に入る条件であるともいえるのである。故に、思索的な時間というものを、少しでもよいから継続的にとって、思索的自己を確立していただきたいのである。

 考えてゆく過程そのものに光明があり、魂の輝きがあるのである。魂の本来の姿とは、思惟そのものであって、天上的に思惟することが出来たならば、その思惟の過程は、必ず、天上世界をかけめぐる翼となってゆくのである。一定の思索が出来るだけでも、人間の最高の尊厳を現わしているといえるし、その思索の質が天上的である程に、あのクラシックの楽曲のように、一つの世界を構築してゆくといえるのである。

 小説家は小説によって家を建てるものであるが、思想家は思想によって家を建てるものなのである。実際に、その思想の中に、多くの魂を住まわせてゆくことが出来るものであり、その思想の中で、多くの魂を育むことが出来るものなのである。

 思想というものは、一つの体系をその内に持っているものであって、本来、家的構造をもっているものなのである。形式上は体系的な著述でなくとも、宇宙の本源的な体系的一者とつながる形で、独自の世界を創り、その中で魂を飛翔させる翼をも提供しているといえるのである。

 その思想的境涯が至福に満ちているのが本来の思想の特質であって、どのような一見ネガティブにみえることが対象のことであっても、それを思索する精神そのものは、思惟の法悦に満たされているものなのである。人生そのものを対象にしても、思索的世界とは、さらに人生の本質に穿ち入る営みであり、本質的世界の中を飛翔することによって、魂の本来の徳性を回復することが出来るのである。

 本来、理念的自己こそが天上的自己の本来の姿であって、哲学をなすことは、本来の理念的自己に回帰せんとすることなのであり、肉身を持ちながらにして本来的自己に回帰することは、現象に埋没しがちな地上の人間にとって、不可欠な営みであるといえるのである。

 天上の神々の本質というものは、思惟的実在であるといえるのである。真理こそ、本来の自己の姿であり、自己の本質であるのである。真理の展開する世界こそが、真に自己の生きる世界であり、生き生きと魂が躍動する至福の世界である。広大無辺な真理の世界に飛翔してゆくことは、プラトンののべるように、人間の本来の理想なのである。

 この限定の多い地上世界において、真に精神的自由を獲得し、理念の世界に飛翔し没入することは、人生の中で最も本質的なことであるといえるのである。思想的自己を育むということは、精神の成長にとって何よりもの目印になることであって、哲学というものは、人間が人間である限り、本源的価値をもつものであるといえるのである。

 思想的世界というものは実在なのであり、哲学者の人生の本質とは、人生経験の表面的な経験にあるのではなく、むしろ、内面世界の思想的世界にこそあるといえるのである。散歩しているカントよりも、散歩の過程でくり広げられているカントの思想の広大さこそが、よりカントの本質であり、実在であるといえるのである。

 喫茶店でコーヒーを飲んでいる姿よりも、そのコーヒーを飲む過程において展開された思想の広大さこそが、より本質的な自己像であるといえるし、机の上で紙に思索をつづっている姿よりも、思索の中において展開された広大なる世界こそが、より本源的なる自己像であるといえるのである。

 人間として肉体をもつ限り、限定がかかったとしても、その中において、一刻においても、本源的なる自己世界を持ちたいものである。本源的な自己世界の断片が集って、自己の精神の成長過程を記してゆくのである。人生の本源的な価値を生み落としてゆくのである。

 抽象的思索に耐えられるようになった精神は、それだけ天上的に成長しているのであり、抽象的思索に耐えうる精神を築いてゆくことも、地上世界における大切な魂修行であり、それ自身に価値を見い出してゆかなければならない。

 人間が本来的に精神的実在であることの何よりもの証が、哲学という営みなのである。カントが出した哲学的結論のみではなく、その思惟的精神の展開する姿そのものに価値があるのである。故に、クラシック音楽の内実を聴くように、カントのような哲学者の精神の思索的過程は、魂によって心読されなくてはならないのである。その思索一つ一つに意義があり、過程そのものに価値があるのである。

 クラシック音楽は、聴けば聴く程に味わいが出てくるものであり、誰も一度聴いたからそれで充分だという人はいないように、哲学的精神もまた、思索的に読めば読む程に味わいが出てくるものであり、その度に新たな発見があり、自己の思索の進展もあるようなものなのである。

 西田幾多郎の思索過程であっても、その行間に哲学的見性体験が如実に現れているものであり、その味わいはくり返し味わってゆくものであり、知識的な理解とはまた異なった理念価値が顕れている。

 古典の中で自らの思索的精神を養いながら、思索的に生きてゆくことが、新時代に復興されるべき価値の一つである。真理そのものの中で精神を飛翔させてゆくことは、何ものにも代えがたい天上的営みであるのである。



〔 光明祈念歌 〕
思索する
自己の精神
世界こそ
魂の住む
真の故郷
(貴)



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