「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「哲学随想の根本思想は自由主義民主主義原理とつながることについて」



 一人一人の意識の根底に理念は発見されるものであるから、真なる理念主義というものは、本来、自由主義原理と一致するものであり、民主主義原理と一致するものなのである。一人一人の自覚をより深めてゆく所に、理念民主主義があり、理念自由主義があるのである。

 人間は、本来、哲学的営みをしながら生きてゆく存在であり、充分に哲学的精神が根づいていない状態というのは、精神的に動物に近くなっているともいえるのである。本来、理性を磨くことによって、理性を活性化させることによって、人間は、より人格的存在となり、理念的本性を顕わすのである。

 その意味において、哲学を日常生活の不可欠の存在とするような風潮をこそ、創出してゆかなければならないのである。数十年前の日本国では、デカンショ節に代表されるように、哲学が学生の必需品であったが、その精神的環境は基本的に変わらないのである。

 人間は、本来、理性的営みを欲する存在であり、理性の輝きを発露した時に、真の悦びを得る存在なのである。精神的環境というものは、時代、地域を超えて、本来、永遠普遍のものである。故に、今の時代であっても、デカルト、カント、ショーペンハウアーの輝きは不変なのである。ただ、その本来相を一時的に忘却しているにすぎないのである。

 故に、永遠普遍なる精神をとり戻した方から、古典的哲学書を読みつつ、周囲の方に感化を与えてゆく一つの時代的雰囲気を創り出してゆくことが大切なのである。

 理性を輝かせることの美徳は、いつの時代においても忘却されることが多いのである。セネカが哲学をされている時に、周囲の方の多くは、哲学を忘れて快楽的生き方に埋没していたのである。しかし、セネカの生き方が、より永遠普遍的な理法に則った生き方であったことは、二千年の歴史が証していることなのである。

 故に、歴史を通して価値ありとなされる生き方をこそ、旨としようではないか。永遠普遍の理性に則った生き方をしてゆこうではないか。永遠普遍の理念につながる生き方をしてゆけば、人生それ自体が、理性の輝きで光ってゆくものなのである。カントの理性の輝きは、今の時代においてこそ、必要とされているものである。より理性的に生きることが出来たならば、より多くの人々の心に魂の糧を与えうるのである。

 理性の輝きのない底の浅い民主主義自由主義原理ではなく、理性の輝きのある深い理念民主主義、理念自由主義原理の働く世界こそが、真なる理想世界である。形の上では、自由主義民主主義的原理であっても、実質においては、理念の光明が輝き出ることが大切なのであって、理念の光明が、自由主義民主主義原理の中に滲み出し、顕現することが、理念の革命であるといえるのである。

 故に、理念の革命とは、形式の上での体制変換ではなくて、形式的自由主義民主主義をしながらの上での、質の転換なのである。自由主義の流れ自体は、ヘーゲルもいっているとおり、世界史の流れである。この流れの中で、理念的深みをいかに創ってゆくかということが、今の時代を生きる哲学者の主たる使命であるのである。

 あくまでも、精神的ジャパニーズドリームというものも、精神的グローバルドリームというものも、自由主義の流れに乗ったものである。自由主義民主主義的原理の内奥に理念を発見し、理念を顕してゆくということであって、より精神的な源より輝きを与えてゆくという所に、本旨があるのである。同じ政治的行為、経済的行為、教育的行為、創造的行為であっても、理性的な深みによって、全く異なった価値を生み出してゆくものなのである。

 故に、理念自由主義、理念民主主義というものは、通常の民主主義、自由主義原理を、形式としては採択してゆくものであって、現代的諸憲法とも合致しているものであるといえるのである。真に近代を通過した諸制度というのは、新時代に向けて、形式上は、自由主義民主主義原理以外のものは想定しえないといってよいのである。

 例えば、神道的祭政一致精神を新時代に活かすといっても、それは、自由主義民主主義的原理の中において、一つ一つの人間的営為を神道的に深める風潮を創ってゆく以外にはなく、それは、哲学的精神と同一のことがいえるのである。

 故に、近代的原理の人類史の中における位置づけは必然的なものであり、一人一人の内なる理性の顕現の自然な要請によるものであるといえるのである。一人一人の自由の自覚が出来れば、全体として、自由の原理が顕れるのは自然なことなのである。一人一人が自己の理性による自律的尊厳をもっていれば、それを自覚した社会的原理とは、基本的に自由主義以外にはないのである。

 故に、我々は、近代的自己の確立に必要であった哲学的原理を修得することによって、真に自由主義的原理の内実を全うしてゆくことが出来るのである。

 形の上でだけ、近代的原理が社会原理としてあったとしても、その実質において、近代哲学が脈打っていなかったら、真にその価値を自覚しているとはいえないのである。真に近代的原理を活かすためにも、その背景となった哲学を真に学び、修得しなければならないのである。

 近代哲学を真に学べば、そこから、近代的社会変革の道程が自然に導き出され、近代以降、近代的原理が普遍的価値をもつものとして認識されてくるのである。新時代というものも、近代的原理の上に構築されるものであって、また、近代的哲学の上に深化されるべきものであることを、良識として確立しなければならない。

 人間は、ゼロから生まれて、その時代その地域の良識を身につけてゆくものであるから、近代的哲学を身につけてはじめて、近代的原理が否定されることは時代潮流からいってないということが分かるのである。むしろ、近代的原理を肯定することが社会的善であるということが分かるようになってゆくのである。

 故に、特に近代哲学を修得しながら、近代的自己確立をしてゆかなければならない。今の諸原理が、中世的なものに逆行することはないということを確認しておかなくてはならない。その意味において、時代精神というものは、近代精神として、今もなお生きつづけているのであり、宗教的世界においても、ある意味で、近代的精神の確立が要請されており、それが、時代の流れにかなったことであるともいえるのである。

 カントの中には、近代独特の原理が既に構築されており、カントに習熟する以前と以後とでは、近代的哲学はもちろんのこと、近代的諸原理に対する考え方が、より深まってゆくといえるのである。故に、現時代においても、特に近代哲学の精神を復興し、再構築してゆくことが大切であるといえるのである。

 古典的真理としては永遠普遍であるものにも、その上で、時代精神というものはあるのである。近代的精神の古典には、近代以降の原点を創るだけの力が備わっており、その意味で、時代の要請に応えたものであり、新時代の精神を考えてゆく上で、その理念的生命は、今も重要であるといえるのである。

 近代的精神が、今なお、新時代精神を創りつづけているという時代状況をよくふまえていれば、時代の大局を見失わなくてよいのである。真なる理念的精神の興隆というものは、近代的精神の真骨頂となるべきものを、新時代に向けて再認識するということであり、より深化させ、より昇華させてゆくということなのである。

 理念をとり戻し、より深化された民主主義自由主義的原理を全うしてゆくことが、新時代のビジョンであり、その過程で、一人一人の人間が哲学的営為を真になしてゆくことが、理想的な人間像であるといえるのである。

 「真理を探究するとはいかなることであるか」ということで探究された無限の広さをもつ真理は、必然的に、民主主義自由主義的原理につながってゆき、「信仰と理性について哲学的視点から考える」ということで探究された理性の営み重視の立場も、必然的に、民主主義自由主義的原理につながってゆくものであり、哲学随想には、諸制度のビジョンが内在されているといえるのである。



〔 光明祈念歌 〕
時流には
幾十年の
流れあり
近代以降
一なる精神
(貴)



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