「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「カント的精神と理性的直覚とは本来軌を一にしてゆくものである」



 理に従って、一歩一歩、思惟の力を極めてゆくということも、また、一歩一歩の思惟を貫く全体像を直覚的に把握してゆくということも、双方ながらに大切なことである。叡智的直覚(直観)も、概念的思惟も、双方とも同じものであり、同じものの二側面にしかすぎないのである。

 真理の認識とは、双方から到達しなければならないといえるのである。哲学的大悟の内容も、また、ある程度、分析的に論述されなければならないし、論理的に論証されなければならないといえるのであるが、論理的体系の基となる直覚があるということは、前提としているのである。

 真なる哲学というものは、宗教的にも、道徳的にも、芸術的にも、一なるものを把握してゆくということであり、一なる理念を直観してゆくということである。理念が理念を知るのであり、それを理会というのである。もしも直覚(直観)だけに終わるものであるならば、結論があって過程のない道程ということなり、多くの人々に考える道筋を与え、その時において、共感を得てゆくということが難しいのである。

 故に、カントのような論理的体系的思惟方法というものも大切になってゆくのであり、深き直覚(直観)であればある程に、さらに、論理的体系的叙述能力というものも磨いてゆかなければならないといえるのである。

 例えば、禅の世界は、不立文字というものの、道元禅師の直覚された内容は、ある程度、体系的に、論理的にも、ロゴス(言葉)を用いて叙述されているが故に、読者としては、「正法眼蔵」等を通して、その心境を追体験しやすいといえるのである。

 「善の研究」以前の日本固有の哲学書を、世界に通用する思索書を一つあげよといわれれば、あえて、「正法眼蔵」をあげてもよいのではないかと思う。日本仏教の中にも、元来、哲学的精神が眠っていたことが、その中には顕れているといえるのであり、哲学的論述の背後に、本来、一定の直覚(直観)が必要であることを、幽示しているものであるともいえるのである。

 「善の研究」一書であっても、その背後には、哲学的大悟ともいえる明瞭な自覚が伴っているといってよいであろう。それは、全体の構造からも、細部の行間からも読みとれるものであり、あの風鈴の音のように、真理の音声が鳴り響いているものであるといえるのである。

 故に、それを哲学的公案の一つとして考え、また、それ以外の書物を測る一座標、一定点として考えてゆけば、「善の研究」と比べて、他の古典的良書、ならびに現代の流行書の一つ一つの持っている本来的価値について見極めてゆくことが出来るといえるのである。

 例えば、カントの「実践理性批判」と「善の研究」を並読してみれば、双方を貫く本来の理念的真理が共鳴してゆくこととなるので、この双方を心読してゆくことは、哲学的心境をあげてゆく上で、自らの大悟、小悟の内実を探究してゆく上で、王道であると思われる。

 故に、一定の直覚があればある程に、論理的実証、論理的体系というものを大切にしてゆこうではないか。その意味で、カント的精神を再興してゆくことによって、真理の内実を見極めてゆくことが大切であるといえるのである。

 哲学的大悟、小悟にも様々なものがあり、様々な思索がカントの著作の内には展開されていることが分かる。様々な哲学的小宇宙大宇宙を統合し、総合する精神的営為がそこには発見されるといえるのである。

 故に、カント的精神をもって大学活動を展開し、研究所活動を展開してゆけばよいのである。そして、直観(直覚)に思想的過程を与え、様々な角度から思想的道筋をつけ、思想的建造物を構築してゆけばよいのである。

 直観(直覚)が客観的真理と合致していればいる程に、正しさが極まってゆくことであろう。ルソーの道徳的直観をカントが「実践理性批判」等で体系化していったように、様々な宗教的直観、道徳的直観、哲学的直観、芸術的直観を、一つ一つ丁寧に哲学的建造物として構築してゆくことが大切なのである。

 理性のもつ先天的直覚(直観)とは、本来、一種の天啓的理性をもつものである。故に、様々な天啓の可能性が、多様に人類には秘められているといえるし、多様に顕現せしめられているといえるのである。それらを型に入れることは本来出来にくいことであるが、あえていえば、人類共通の普遍意識(宇宙意識)のようなものが、真理として実在しているのであるといえるであろう。

 しかし、それは、或る面では、数学的真理のように公平であり、無私であり、透明であり、純粋なるものである。この一面を失っては、本来の道徳的真理は客観的真理とはいえないし、宗教的真理も、芸術的真理も、客観的真理とはいえないのであろうと思われる。

 故に、客観的真理にどこまでも合致した哲学的直観(直覚)を構築してゆくことが肝心であり、神道においては審神、哲学的においては批判してゆくことが王道であるといえるのである。そして、客観的真理に真に合致し、永遠普遍の道徳律たりうるものを、単なる一個人一組織として通用する格率ではないものを、人類共通の遺産として積み重ね、共有してゆくことが大切であるといえるのである。

 本来の真理とは、盲目的信仰によってではなく、審神、批判されることによって活きるものである。活きた真理こそが、活人剣としての哲学的営みの中で培われてゆくものである。

 様々な哲学的直観(直覚)というものを、カント的精神によって活かしてゆくことが、本来の哲学的営みである。故に、様々な思想の中から、永遠普遍の真理たりうるものを哲学化し、体系化してゆきながら、大道となしてゆくことが大切である。

 その過程で、本来の理念の革命が成就されてゆくはずである。真にインスパイアされる天然のものがあれば、そこから常に新たな哲学が、新たな思想が始まってゆくはずである。そこに、真なる天命があるはずである。

 本来の理念(理性)において、哲学も学問も科学も芸術も道徳も、一なるもの、一なる体系として止揚されてゆくものである。そして、魂をその内実において豊かにしてゆく学問体系が出来てゆくはずである。

 天来の大道に学問思想哲学科学を復帰させ、本来の生命を輝かせてゆくことが、理性の使命である。理性(理念)の王国は、一人一人の心の内に真なる自由を創造してゆきながら、一人一人の真なる自己実現に資してゆくものである。

 一人一人の生命に真なる尊厳を与えるものこそ、真なる哲学的営みである。カントの精神すら未だ古くはならず、今現在未来に活かせるものである。西田幾多郎の精神も未だ古くならず、今現在未来に活かせるものである。

 客観的真理に限りなく近い真理を見極め、真理の階梯を確実に登ってゆくことが出来たならば、直覚に次ぐ直覚が、真なる哲学の生命であることが分かるのである。



〔 光明祈念歌 〕
道往けば
道の奥にも
道ありて
永遠普遍の
大道に出ず
(貴)



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