「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「古典の型を通して魂が自己の本性を輝かせる道について」



 学徳を修めてゆくということは、様々な書を変えて読んでゆくことだけによって得られるものではない。むしろ、真実の古典であり、自らの心を深く揺り動かすもの、もしくは、不動の平静心をもたらすものと思えるものを、たとえその数は少なくとも、丁寧にくり返し読んでゆくことも大切である。同じ真理の書は、くり返し読むことによって真に理解されてゆくし、魂の業を形成してゆくことにつながるのである。

 故に、真に自己の魂の業を形成してゆくのであると思って、読み込んでゆく書は選ばなくてはならない。くり返し心読してゆくことは、書の練習のように、心の内に、精神の内に、一つの型を形成しているのである。故に、型が真に形成されるまで、基本をくり返すのがよいのである。

 真理は真理であるが故に、読み込んでゆく時期の心境に応じて、無限に変化するものである。理解出来たと思っていても、その理解は充分であるとは限らない。無限の奥行きのある理解があるのである。

 知的理解の背後にあるのは、哲学的悟りの境涯である。一定の真理の書を読み込んでゆく内に、悟りの境涯が高くみえる時もあれば、低くみえる時もあるであろう。しかし、一定の時間を続けてゆけば、底力というものがついてくるものなのである。

 本当は、真理の書といえるだけのものは、数ヶ月、数年、数十年かけて、心読していってよいものなのである。それだけ言霊に重みがあるものであり、行間に奥行きがあるものであり、一つの体系を創っている精神が、崇高にして広大なものであるのである。

 故に、古典的精神に親しむ道は、数日にして成るようなものではないのである。分かっていると思っていることであっても、分かっていないし、既に知識的に読了したと思っているものであっても、知識的にすら読了出来ていないものなのである。真に分かるまで、一定の型の読書を続けてゆくことである。

 そして、ただ単に受け身の形で読書をしているだけではなくて、その度ごとに熟考するべきである。主体的に思索を加えてゆくべきである。かの吉田松陰の講孟箚記のように、どのような聖人君子の言説に対しても、ただ単に受け身で修行するだけではなくて、主体的に、批判精神をもって、思索を展開してゆくべきである。そうすれば、自ずから、自らの中で応用精神が基本精神に対して育まれ、一定の知的生産をなしながら、なおかつ古典的精神に習熟してゆくという精神態度を持つことが出来るのである。

 人間の魂は、永遠不滅の修行者である。哲学の問題も、ただ一生の問題という訳でもなく、永遠の生を通じての問題なのである。たとえば、今、プラトンの古典精神に感動して学んでいたとしても、それは、かつての生において学んでいたことかもしれないし、それを違った角度から学びなおしているのかもしれないのである。

 古典的精神というものは、人類史の中で変わらない価値の光沢を放つものであるから、一生で全ての古典的生命を学ぼうと焦らなくともよいのである。ゆっくりと、今生の生においても、肉身を去った生においても、まだ足らない所があるならば、来世の生においても、学んでゆけばよいのである。むしろ、本来の哲学はより天上的な営みであって、ソクラテス、プラトンも言っているように、肉身を去った方が学びやすいものなのかもしれないのである。

 哲学的な魂にとっては、無限の哲学的著作物が地上にはあるのであるが、それらが無限の高さを有しているだけではなくて、無限の広さ、無限の幅、無限の深さを有していることも忘れてはならない。

 現在の心の境涯に応じた哲学的著作物というものは有り、常に高みを目差してゆくというのではなく、自らの幅を広げてゆくということも大切である。その意味において、現在の心境に共鳴できる哲学を数多く探してゆくということでもよいのである。真に深き共鳴がなければ、同じような哲学的著作物を繰り返し学んでゆくということもないであろうから、自分自身の魂に対して廉直になるということも大切である。

 何か客観的真理があって、それを何の主体性もなく学んでゆくというよりは、主体的問題意識があって、自らの実存的要求に従って学び、かつ思索してゆくという方が、より根源的な精神態度であり、哲学者に求められる姿勢なのである。今ある主体的問題意識の奥に、独自の哲学の芽が潜んでいるのである。

 主体的問題意識が自然に要求するものを、古典的真理の中に追い求め、また、自ら対象化して思索してゆけばよいのである。ある意味で、真理に高下はないのである。いかに主体的な問題意識にあった哲学か否かの方が、より根源的な指標なのである。

 自らの主体的な問題意識にかなった古典を発見出来ることは、この上ない悦びである。学ぶべくして学ぶ真理が無数にあるということが、この地上世界の本来の豊かさとなっているのであり、至上の絶対者が、無限無数の哲人を育んでいる理由でもあるといえるのである。

 この真理は今の魂には合わないけれども、この真理は今の魂には合うというものがあれば、そこに天分の要請が働いていると観るべきである。故に、教養を修めてゆくといっても、全ての真理が必要な訳ではなく、実際のところは、知識としては広くありながら、真に実修し、心読してゆくのは、その中の数少ないものであってよいのである。
ショーペンハウアーが読書について述べているとおり、真に大切なことは、読まれることではなくて、主体性をもって自ら思索することであって、数人の古典的精神についてゆくことが出来たならば、本当は足ることを知るべきなのであり、数人の古典的精神を真に発見するために、広い知識が必要であるともいえるのである。

 その数人の古典的精神も、人生の時代時代によって変わっていってもよいのである。それぞれの人生経験や時代環境に応じて思索も変わり、同調する古典的精神も変わって、ある意味で自然だからである。むしろ、そのような場合は、幅広い魂の習熟が出来たことを、根源の神に感謝しようではないか。それぞれの時代に時代精神というものがあるように、個人の内においても、時代精神というものがあってよいのである。

 どのような場合であっても、何らかの古典的精神に自らの魂を投影出来るということは、真に幸福なことである。そして、自らの魂に合わせて自然体であることが、何よりも大切なことなのである。自らの魂の自然に合致した読書をし、思索活動をしてゆくべきである。自らの魂の自然の本性が、何よりもの基準である。

 そして、自らの魂の本性をより輝かせてゆくことが、一定の古典に対して型をつくってゆく上で、目的ともなることであるから、魂の本性に反してまで型をつくる必要はないし、むしろ、魂の本性に合わせて、型をその都度、選択してゆけばよいのである。古典的精神によって魂を磨くということは、自らの魂の本性に全く異なったものを植えつけるというのではなくて、自らの魂の本性にかなったものを憶い出させ、活性化させ、顕現せしめるということなのである。

 古典という安定した型によって、本来の魂の自然の本性を輝かせ、昇華し、発現し、叡智の結晶を育んでゆくことが出来たならば、最高の魂の悦びを育んでゆけるのである。



〔 光明祈念歌 〕
学び問う
業を創る
真理とは
魂の生地
活かす哲学
(貴)



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