「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「信仰と理性と叡智的直観について」



 この「哲学随想」は、信仰と理性が、真髄において一致するのであるということを、主として哲学的思惟の立場から述べたものである。基本的に、自己の内部に神仏の生命を発見するということを主軸として論述してある。

 そして、正統なる人間中心主義の理性的信仰観を打ち出しながら、同時に、絶対者に対する敬虔な気持ちを表現しているものである。

 信仰心というものも、深めてゆけば深めてゆく程に、自己を虚しくしてゆくものである。そして、どこまでも自我を虚しくした先に、真なる真理としての神仏との生命の合一があるのである。このような信仰心がなくては、本当の理性的認識は成り立たない。

 真なる理性というものは、小さな自我を大きくすることではなくて、滅却してゆくことであり、滅却した後に、真なる自己を発見し、取り戻してゆくものである。故に、真なる滅却は、真なる再生につながるのである。

 この真なる自己をどこまでも穿ってゆけば、自ずから神仏の生命と合一し、自己を通して、神仏の生命を表現出来るのである。それが、本来の創造的実現であり、本来の自己実現である。

 真なる叡智的直観というものは、自己の内奥に神仏の生命を悟得することである。真に神仏の生命を悟得するということは、真に無我になるということである。真に無我になるということは、自他の区別を越え、主観と客観の区別を超えてゆくということである。

 すなわち、ヘーゲル等のいう絶対知こそが、叡智的直観の本質にあるということである。カントは、理念(イデア)は考えられるだけのものであるとされたが、ヘーゲル等は、理念は自己の根底に発見されるものであり、それが絶対宗教であるとされているのである。

 真に自己の内奥の理念に到達し、理念的自己の生命の躍動を感得しながら、永遠普遍の叡智的実在を、自己を通して、限りなく流出せしめてゆくことこそ、真なる哲学的営みである。

 真なる哲学的営みとは、限りなく美しい法身に抱かれながら、その一部を、自己固有の個性を通して顕してゆくことなのである。



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