「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「理念的に精進しつづければ悲しみも苦しみも報われる」



 人生の過程で、悲しみや苦しみが存在しているのは、ある意味で、避けようのない真実である。しかし、それを乗り超えてゆくだけの本来的な力が、魂には本来備わっているのである。どのような悲しみも苦しみも、その方の魂の器を超えるようなものは与えられないのである。ある意味で、その方の魂に相応であり、善き魂修行の素材となるべき試練が与えられるのである。

 故に、どのような試練が与えられようとも、忍耐力をもって打ち克ち、その奥に、人生の真理をよりよく発見してゆこうではないか。真理を発見してゆくということは、最高の愛の実践であり、発見された真理そのものが仕事をしてゆくものなのである。人生の悲しみや苦しみを透過しない方の語る真理には、どこか軽薄さがただようのである。そして、多くの人々の心を真に動かし、救ってゆくことにはなりにくいのである。

 故に、重厚に人生を真正面から見据えてゆこうではないか。人生の到る所に真理を発見し、真理の柱を立ててゆくことによって人生を充実させ、新構築してゆこうではないか。真に哲学者の志をもって、また、もちつづけて人生をよく生き抜いてゆくだけでも天意にかなったことであり、充分に価値のあることなのである。真に魂の眼が真理の光明を輝かせてゆけば、真理こそが人生の実在であることが分かってくるのである。真理が様々に幸えているのが、この世の存在の真相であることが分かってゆくのである。

 故に、人生のすべてのことは、真理を知るための素材であるといえるのである。様々な真理に触れてゆくための機縁であるといえるのである。その意味において、人生に何一つ無駄なことはないのである。無駄とみえているのは目の錯覚であって、一つ一つの細かなことに、無限無数の本来的意味、本来的意義が含まれているのである。

 理念こそは、人生の実在であって、実相なのである。真に達観し、諦観してみれば、人生とは様々な真理の応化実現されている場所なのである。この人生、この世界なくして、いかなる哲学も生じず、いかなる宗教も生じず、いかなる芸術も生じないものなのである。人生とは、まさに、真理の宝庫なのである。

 人生の過程において、様々な悲しみや苦しみがあったとしても、それを乗り超えてゆけば、必ず、大悟の大地が広がっているものなのである。大法悦の天地が広がっているものなのである。それは、全ての人生にいえることなのである。

 故に、大法悦の希望をもって、人生をどこまでも真摯につき進んで頂きたいのである。必ず、努力精進しただけの報いはあるのである。どのような小さな努力精進でも、積み重ねてゆけば、やがては人生そのものの屋台骨となり、この世においても、あの世においても、新人生を創造し、さらには、国家に、世界に貢献してゆく理念的結実を迎える時期が来るのである。

 人生の中に理念を実現し、顕現してゆくこと、国家や世界の中に理念を実現し、顕現してゆくことこそ、JDRの本来の大志である。大志が集結して、理念の夢の華を咲かせる運動が展開しつづけているのである。故に、ささやかな努力精進をつみ重ねてゆくだけでもよいのである。確実に前進してゆけば、相応の道が必ず拓かれてゆくのである。理念的人生こそ、我々の本来の歩むべき人生であり、大道のある人生こそ、我々の本来の成就するべき人生である。

 大道は太古から存在していたが、無限無数の哲人達の知恵の結集によって幸えているのである。一人一人の人生は、太古から幸えている大道を一つ一つ知ることによって、本来の理念的実在へと還帰してゆくのである。しかも、唯一無二のかけがえのない経験と、経験に裏うちされた知恵を伴って、新還帰してゆくのである。

 プラトンのいうように、我々は、様々な知恵について、天上世界において既に知っていたのである。しかし、一度記憶を無くして生まれて、それらを一つ一つ想起してゆくことは、何と大いなる悦びを伴っていることであろうか。しかも、唯一無二なる人生経験の実存の中で知ってゆくことは、既に知っていたものであっても、さらに別の観点から知ることが出来るものなのである。

 従って、魂は、どのような経験を経たとしても、確実に生長しつづけているのであるから、根本において、人生の内奥なる神、内奥なる摂理を信頼しておいてよいのである。人生においても、様々な時代があり、その時代その時代において、同通する世界、同調する古典も異なってくることがある。しかし、それ故にこそ、人生の様々な味わいが生まれ、全体として、人生が一大総合芸術となってゆくのである。それぞれの時代において共鳴する思想哲学や宗教や芸術が異なることは、相応の意味をもっており、その一連の流れの全体そのものが尊いものであるのである。

 人生にも時代精神のようなものがあって、それぞれの時代の主旋律を奏でながら、人生に色あいをつけてゆくものなのである。故に、必要以上に過去に執われる必要もないし、むしろ、過去の内に顕現した唯一無二の芸術を、理念的人生を愛でる気持ちをもっていると、人生全体が余裕をもって豊かになってゆくことであろう。現在の精神が過去の精神と違っていても、それ自体が、魂全体の進展の証であるであろうし、現在の精神の基礎に過去の精神がなっていることにはかわりがないのであるから、過去も唯一無二の自己精神史の過程として尊んでゆくことが大切であるといえよう。

 そして、時折、過去を振り返って過去に遺したものに、現在にしかつけ加えることの出来ない新たなる意味をつけ加え、過去を新再生することによって、過去を新構築してゆくのもよいことであろう。どのような紆余曲折のある人生であっても、本来、曲全である。到る所に、本来の理念的光明が実在しているし、さらに、発見され、顕現され、表現されることを待っているのである。

 悲しみや苦しみが魂を浄化してゆくということは真実である。そのことを信じて、悲しみや苦しみの渦中にある方は、耐え忍んで頂きたいと思う。必ず、その後には、より純化された一大光明芸術の華が咲いているのである。そして、その法悦の華が、悲しみや苦しみをも包んでゆくのである。

 この世で生きてゆくということは、まさしく泥沼の中に華を咲かせてゆくものにも近いであろう。しかし、泥沼のなき蓮の華はないのである。さらにいえば、泥沼があることによって、必ずや蓮の華が咲いてゆくのである。どのようなことがあろうとも、唯一無二の理念の華を咲かせてゆこうではないか。

 ニッコリ笑って、人生は素晴しい、山川草木国土悉皆成仏と言いきろうではないか。釈尊であっても、大切な苦行の果てに中道に入られ、涅槃寂静の悟りを得られたのである。どのような悲しみがあっても、苦しみがあっても、その報いは必ず得られるのである。理念的に精進しつづけてゆけば、神仏の生命は、今ここに実在しているのである。



〔 光明祈念歌 〕
悲しみを
通過してこそ
悦びも
より深まりて
純化せらるる
(貴)


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