「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「学徳を修めながら一なる生命に穿ち入り人生を新創造してゆくことについて」



 学徳というものを修めてゆけば、自ずから人生が整い、運命が整ってゆくものである。人類が永年尊敬してきた偉人の方々の業績の中には、不動の光が刻印されている。この光を丁寧に魂の中に蓄積し続けてゆけば、光が自動的に運命に道をつけてゆくのである。故に、淡々と自らの王道を歩んでゆくことである。学問においても王道を歩み続けてゆけば、運命もまた王道の中に入ってゆくのである。

 様々な人生の途上で経験したことも、王道を歩み続けてゆく限りにおいて、王道の中で独自の花をつけ、独自の実をつけてゆくことになるのである。故に、全ての経験を活かしてゆく道は、全ての経験を、王道の中において洗い流すことでもあるのである。

 古典となっているような良書の中において、自己の経験を投影すべき教訓が彩られていることであろう。このような教訓を真に活かすものが自己の経験であり、自己の経験を通して、偉人が発見した教訓を自らのものとすることが出来るのである。それが、人生を真に開拓することである。

 人生というものは、経験されてそのままであってはならないのである。必ず良書を読み、その中において、経験に道をつけてゆかなければならないのである。真に良書の中において昇華してゆかなければならないのである。その上で、自らの経験を活かして知的生産物を創れるのであるならば、それはさらなる経験的自己創造をなしてゆくことが出来るといえるのである。

 古典的良書の中で磨かれた経験というものは、宝石のように輝き出すのである。そして、独自の人格的光沢を創り出すのである。このように、知識と経験というものは相互に作用し、知恵の結晶を育んでゆくものである。

 どのような経験であっても、それを活かす古典が無限無数にあるものである。人生を再構築してゆく道標は既に存在するのである。そもそも、無限無数の古典的生命と真に出会うためにこそ、我々は、人生という大河を川下りするともいえるのである。活きた経験を、古典的生命の大海の中に解き放つということは、最高の自己実現でもあるのである。この人生があったからこそ分かる古典的生命が無限にあると思えることこそ、新たな人生を経験した意義でもあるといえるのである。

 古典的生命は、すなわち、偉人の生命というものは、多くの場合、決して平坦なものではないのである。様々な悲しみも苦しみも悩みも経た上で、その経験を古典の中に昇華しえているといえるのである。故に、古典的作品とその方の人生とは、切っても切れないものであるといえる。人生の中において経験した真理が、古典的作品の中には必ず表明されているといえるのである。

 その意味において、たとえ抽象的な哲学書であろうとも、その中には、その哲学者の全人生の知恵の結晶のようなものが凝縮されていると考えてもよいのである。哲学者であるからこそ、具体的な現実を、抽象的な真理にまで昇華することに成功しているのであって、抽象的な真理として顕れているものは、具体的人生の結実そのものであるといえるのである。

 故に、古典的作品を通して、我々は、実人生を学んでいるのである。哲学書であっても、その行間の中に、実人生のいかなるかを読み込んでゆかなくてはならないのである。伝記などには、実人生の表面だけが描かれていることが多いといえるが、実作品の中には、人生の内面的真実がより迫真的に描かれているともいえるのである。故に、文学書は当然のこと、宗教書も当然のこと、哲学書であってさえ、実人生の告白そのものであるといえるのである。

 人間は、実人生以上の作品を創造することは出来ないのである。必ず実人生に見合った知的創造物が出来上がるのである。その知的創造物を観れば、その方の実人生がいかなるものであったかということが如実に分かるのである。

 故に、我々は、結局のところ、哲学書から実人生そのものを学ぶのである。その方にとってより内面的な人生の真実そのものを学ぶのである。その方が人生経験の中で培われてきた光が一体いかなるものであるのかということを学ぶのである。

 知識をいくら積み重ねても、それだけでは真なる知的生産物とはならないのである。その一つ一つに実人生が投影されて、その中から人生の結晶体が生まれた時に、それが積み重なって、知的生産物となるのである。

 どのような経験も、細部から根底に到るところまで、知的生産物にはその方の真人生が描き出されるのである。それは、画家がどのような絵画を描こうとも、結局のところ、一種の自画像のようになってしまうのと同じである。

 哲学者は、哲学書において世界観を述べる時であっても、結局のところ、自己とは一体何者であるかということを述べているのである。自己とは一体何者であるかということが、常に哲学者の人生においては問われているのである。自己の人生の生きる意味とはどこにあるのであるかということが、常に問われているのである。一日一日の積み重ねの中で、その答えを発見してゆくのである。その発見の積み重ねが一つの体系を成して、哲学思想として構築されているのである。

 故に、我々は、古典的良書を鏡のようにして自己の人生を問い直し、磨き直してゆかなくてはならない。模範的な鏡となる書は、知識として読んで終わりというのではなくて、くり返しくり返し心読して、自らの鏡としてゆかなくてはならない。そして、自らの経験を一つ一つ点検し、昇華してゆかなくてはならない。相互に作用する所を光として、それらを基軸に人生を再構築しつづけてゆかなくてはならない。

 人生というものは考えられるものであるが、同時に、考えることによって創造されてゆくものである。考えることによって、また、考えを叙述することによって、再構築されてゆくものである。

 故に、古典的生命に接して、創造的人生を歩んでゆこうではないか。より高い視点から人生を眺めることが出来たならば、より高いものへと人生を再創造してゆくことも出来るのである。人生の素材をそのまま活かして、そこに付加価値を創造してゆくことも出来るし、さらなる統合価値を創造してゆくことも出来るのである。

 人生とは、どんなに悲しい出来事や苦しい出来事や悩みなどがあったとしても、必ずそれらを昇華できるように出来ているのである。はじめから大いなる償いの精神の下に生かされているものなのである。数多くの偉人の人生は、大海のように、全ての経験が昇華されるべき器のように、歴史を超えて横たわっているのである。

 ささやかに観える人生のささやかなことの中にも、偉大なる真理の一端が必ずや眠っているのである。このような真理が積み重ねられて、哲学書思想書が出来てゆくのである。だから、実人生の表面からはうかがいしれないような真理が、崇高な思想が生まれつづけてゆくこともあるのであり、そこにこそ、哲学者の使命があるといえるし、哲学書を紐解く時の鍵があるといえるのである。

 哲学者とは、表面的な人生の事実の中に生きるものでは必ずしもない。人生の事実を深く掘り下げて、その内奥に横たわって実在している思想や真理、光というものを把握するものであり、それが、ただ生きるということではなくて、善く生きるということにもつながってゆくのである。

 古典的生命を通して、私達は、人生の深奥を観ることが出来るのである。人生の深奥を生きることが出来るのである。この人生の深奥には、確かな理念(イデア)がある。永遠普遍の真実在があるのである。

 学徳を積んでゆくということは、人生の中において、真実在たる理念(イデア)をいかに数多く発見し、顕現してゆくことが出来るかということである。学に参ずることによって、自己をより深く穿ち、より深く超えてゆくことが出来るのである。一なるものと一体となり、一なるものの根底の光を受け継ぐ者となることが出来るのである。

 確かに一なるものとつながっているという実感が、自己信頼と信仰心の実質である。光は無限にそこからこみ上げてくるものであり、流れ出してゆくものであるのである。この光が、知恵となり、真理の核となり、また、多くの人々に無限なる魂の糧を与えてゆくものとなってゆくのである。



〔 光明祈念歌 〕
古典より
人生の視点
高くもち
新創造す
至高経験
(貴)


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