「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「限りなく美しい叡智的実在としての法身について」



 大宇宙の真理というものも、結局のところ、一人一人の人間の心の内奥、精神の内奥に宿されているものであって、法身は、全ての方の内に実在しているといえるのである。ヘーゲルのいう法則とは、法身のことでもある。すなわち、学の学たるゆえんの根本は、法身たる神仏の生命の核心に触れることにあるのであるともいえるのである。

 この人為を超えてある天網(老子)は、大宇宙大自然の到る所にはりめぐらされている。故に、法身としての生きた神仏は、大宇宙の全ての営みの根底に実在しながら、その全てを、全位相、全ての立場から把握されているといえるのである。

 神は木の葉一枚落ちることも知り給うと言われるが、法身に脈打っている生命は、全ての全ての現象の根底に遍在されているが故に、全ての全てを知り給うのである。大宇宙大自然の全ての現象を貫く法身としての神仏は、全ての全ての根底にあり、全てを知り、かつ、全てを行うが故に、全知全能であるといえるのである。

 我々は、一人一人が、そして、等しき生命である万象万物が、全知全能なる神によって生かされているということをよく自覚して、自らの天分天命に対して真に安心立命の境地に立たなくてはならない。全ての全ては偶然にはない。ある崇高なる確率の上に成り立った必然の上に成り立っているのであり、一なると共に、多様なる法身の意志につき動かされるようにして実在的生命を実現し、こうした創造的実現の内において、自己の内在的生命をさらに分化発展し、統合に次ぐ統合を重ねながら、さらなる法身の体現顕現を目差して生きているのである。

 真なる哲学者の生とは、内なる法則の無限の発見と、発見に基づく創造の連続である。プロティノスの如く、内から大いなる生命の流れが光明となって流れ出して流れ出して止まず、無限無数の哲学的随想を地上に顕在化、結晶化させてゆき、より一層、内的真理を自覚すると共に、限定し、さらに限定をかけることによって解放し、無限的自由を法悦に満ちて実現してゆくのである。その意味において、哲学的真理の叙述は、内なる真理が外なる真理の機に応じて随時湧き出ずる光の泉の湧出のようなものであって、外なる真理と内なる真理の無限なる呼応であり、饗応である。

 学ぶ以前、考える以前から、先天的に内奥に実在していた理念(イデア)が想起的に流出してくるのであるが、それがために、その真理は、本来純粋真理であって、限りなく透明なものであり、本源的に美しいものである。無限なる美しい叡智が、心の内奥、精神の内奥には、あの独特の大海原の如く、海雲の如く潜在して、既に永遠普遍なる太古から実在しているのである。終わりもなく始めもないもの、真に不生不滅にして、真に永遠普遍なるものが人間の精神の根底には常に横たわっているのである。

 しかし、同時に、様々な学びや思索がその日その日の契機となり、機縁となって、本来有していた所の真理の大海を想起させ、それが、あたかも、今悟得し、知り得たかの如く、思索の内に姿を顕わすということは、唯一無二なる真理との邂逅であり、本来師なる、真理の師としての法身の神仏との邂逅であり、導きである。

 我々は、真に無限なるものに生かされているのである。神の本質が無限であるということは、一種の数学的(微分的)概念であるが、それが故に、限りなき美しさを秘めているといってもよい。人間が永遠の今を美と感じるように、無限なるものの連続を観じた時に、限りなく美しいものを感ずるのである。

 私は、幼少の頃から、数理的なもの、自然科学的なものに無限を感じ、無限であるが故に、畏敬の念をもって美しさというものを感じとってきたものであるが、それは、生得的に、神とは何かということ、法身としての神仏の生命とは何かということを感じとっていた証ではなかいかと思う。今でも、その想いは変わらない。

 哲学的真理を探究してゆけばゆく程に、そして、哲学的真理を観出してゆけばゆく程に、無限なるものとの邂逅を、畏敬の念をもって観じざるを得ない。そして、限りなく美しいもの、美しさをもった叡智的実在の無限の連続をそこに見い出すのである。その大宇宙大自然の摂理の一つ一つは、人間心で推し測ることの出来ないぐらいの叡智的美に育まれている。一見、人間的にみれば悲劇的にも、不幸にも見えるものも、己れの小さな執われを去り、永遠の生命の輪廻と実在に思い巡らし、その真理観照をしていった時に、本質的に絶対的な善と、完全という言葉では現しえない無限なる調和を、そこに見い出すのである。

 法身としての神仏の生命には、本来名がない。人類の先覚者達が名付けたものに、伝統を加えられて、仮に神仏と名付けているだけである。それは、道といってもよいものであり、道は本来無名であると言われているものである。自分自身の根底をどこまでも掘り下げてゆけば、自分自身の本来の自己は、実は全ての全ての生命とつながっている。故に、ユングが深層心理学で明らかにされているように、深層においては全ての生命がつながっており、さらに、その奥なる一なる生命が無限に実在しており、さらなる分化発展の出口を求めて、個性を創造しようとしている。

 これは、人間のことだけではなく、大宇宙大自然の全ての生命が根底においてつながって、一つの一大生命を形成しているのである。これは、主として精神の内奥なる世界のことを述べているのであるが、そのことが象徴的に地上に顕れているのが、大自然の生態系のあり方であるといえるのではないかと思う。

 大自然の全ての生命の中に、法身たる神仏は自己の生命を投影され、自己の個性的可能性の一部を、個性として主体的普遍をもつ個物として生かしめられている。それらの生命は、ただ単に食物連鎖等でつながっているだけではなくて、それ以上に、魂において、心において、精神的なるものにおいて相互作用しあい、お互いに相互限定しながら、一大生命の創造的実現をなしつつ生きている。

 万象万物の全ての生命から、我々はあらゆることを学び、神の生命の導きを受けることが出来る。このような根本実在としての神仏の姿は、カントのように、人間にとって証明されざる不可知なるものとして考えてゆくよりは、叡智的直覚によって、直接経験の事実として、生命の内奥から悟得されるものとして、内在的証明がなされるものとしてとらえてゆく方が、実はより普遍性をもった考え方ではないかと思うのである。

 叡智的直観というものは、本然的価値の根源であって、限りなく先天的なものである。本来あるものを、本来あるものが相互理会してゆくということである。真に一人一人が自己の価値を自覚してゆくということが、一人一人が自己の心の内奥において大宇宙の真理を直覚しうるということに根本があり、神仏の生命をありとしあらゆるものに顕わしてゆくということこそ、生をして生たらしめていることの根源にあるものであるといえるのである。



〔 光明祈念歌 〕
無限という
数学的な
美の生命
一人一人を
生かす法身
(貴)


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