「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「絶対宗教としての理念哲学と叡智的直観について」



 神仏の生命の流転する姿こそが、人生における創造的実現の本質である。ヘーゲルは、自己の根底に神を発見するという宗教こそが絶対宗教であるということを述べておられるけれども、この哲学随想において探究している宗教の形と本質も、絶対宗教であるということが出来る。真なる自律の倫理学の根本にあるのは、自己の内に神を発見し、神の生命、神の法則、神の光明を実現顕現させてゆくということであって、これこそが、至高の自己実現であるといえる。

 その時に、他律的に観えた数多くの真理の煌めきが、実は自分自身の精神の内奥に発見され、真に自他が一体であり、真理が永遠普遍なるものであることが実感されてくるのである。自己の精神の内奥に見い出した神の御姿、真理の本質が、世界史の中に様々な形で既に顕現していることに気づく時、人間は、世界史を貫く絶対精神に触れることになり、この絶対精神が、自己の内にも、他者の内にも、人生の様々な過程の内にも、世界史の様々な過程の内にも宿って脈打っていることが実感されるのである。

 西田幾多郎は、一方において、限りなく論理的に、狭い意味での理性的に真理の本質たる神を探究してゆかれているが、同時に、優れた知的直観の前では、いかなる論理の刃も無くなるという内面的真実も述べられている。西田幾多郎の直覚された神仏の生命は、結局のところ、エマソンが直覚された所の神と一致する。エマソンを単に独断論的直観論者というのは、表現は適切ではないであろう。真理の本質たる神は、最終的には叡智的直観ともいうべきものによって直覚される所があるということを様々に述べているのであって、その過程で、エマソンの随筆に出てくる無限無数の古典的著作物と、それらに対する彼の深く広く高い洞察は、どれだけ知性的に、理性的に、彼は神の本質を認識されようとしたかということ、彼の理性的営みの強靭なることを証するのに充分であろうと思う。知性の権化のような方が、さらに、その知性の本質において直覚的に神を把握しながら、自らの思索活動を展開されているといえるのである。

 プロティノスも、知的直覚、知的直観というものを非常に重視した哲学者であるが、彼の「エネアデス」を貫く精神は、神秘的な要素を持ちながらも、どこまでも知性的であり、合理的である。プラトンのイデア論でも、その本質にあるのは、何という神秘思想であることか。哲学の始源においては、かくも天上界の様相が堂々と権威と説得力をもって描かれており、このような神秘的要素をあわせもつ形而上学が様々な論点において探究され、一つ一つ、知性的に合理的に積み上げられているのである。彼が理性的思惟(思索)という時、その中には、限りなく神秘的な直観、知的直観、叡智的直観が含まれていることは当然のことであろう。

 私の哲学の認識論上の中核をなす叡智的直観という概念も、結局のところ、このような理性の奥にある先天的直覚のことをいうのであって、この先天的直覚によって、神仏(理念)が認識されうるというのが、カントと形式上の真理の叙述が異なる所である。カントの影響を強く受けたエマソンの神に対する叙述、理念に対する叙述が限りなく直覚であるのは、カントの形而上学の根源もまた、理念を重視し、理念を中心に構築されており、彼が本来、いかに理念というものを重視していたかということを潜在的に象徴しているのではないかと思う。

 カントの流れから、理性によって理念を直接認識出来るというヘーゲル哲学が生まれ、ハイデッガー等はヘーゲル哲学をもって近代哲学の完成を観るといわれていることは、カント哲学のもつ内面的内在的必然性による所が大きいのではないかと思われる。

 私は、「精神的ジャパニーズドリーム」の「理念の革命」という結語の論文の中で、カント哲学の本質は理念哲学でもあると述べたのは、結局のところ、「実践理性批判」にしても、「純粋理性批判」と対になるようにして、本質において、理念を中心にその体系が構築されているからである。

 プラトンのイデア哲学におけるイデアと、カントの物自体の概念はほぼ等しく、カント哲学は、プラトン哲学の近代的表現であるともいえるのである。どこまでもプラトンのイデア哲学を念頭において、それを批判継承して再構築する形で誕生したのがカント哲学であるともいえるのである。

 ショーペンハウアーは、彼の哲学上の指導教授から、プラトンとカントの両者をどこまでも深く学ぶことが哲学を学ぶ上での王道であると教えられているが、私も、その学習方法は哲学上の王道の一つであり、JDR義塾大学においてもすすめておきたいと思う。そうすれば、認識論上の論点の骨子が、より大局的に、本源的につかめるのではないかと思う。

 ショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」の中にも、カントはもちろんのこと、プラトンのイデア哲学の影響は色濃く出ており、特に、彼の芸術哲学を論じた箇所などは、イデア哲学を、さらに独自の思索によって具体化、結晶化させたものともいえるであろう。一見、プラトン的合理的理念的世界観、人生観とは対極にあると思われているショペンハウアーの哲学体系が、イデア哲学を本質的に内在しているということは実に面白い点であり、彼の哲学の実相(本来の真象)は、東洋的(仏教、ウパニシャッド哲学的)理念哲学に属するというのは、私の考えである。ショペンハウアーのような、一般に非合理的といわれる哲学体系であっても、その最も生産的な所は、知的直観によって語られており、その知的直観の内容を論理的に翻訳しているといってもよいであろう。

 ルソーにあっては、その傾向はさらに顕著ではないかと思う。彼は、考える前にまず感じたといわれているが、それは、ただ単なる感性のようなものではなく、知的直観、叡智的直観のようなものであろうと思う。このような知的直観、叡智的直観を、私の哲学体系では、広い意味での理性の最も高度なる働きとして位置づけている。

 ヘーゲルの絶対宗教や、西田幾多郎の知的直観や、エマソンの叡智的直観のように、自己の最も深き根底に神仏の生命を直接見い出し、神仏の生命の一部であるからこそ神仏の生命から直接的に啓示を受けるということは、新時代の理念哲学、理念哲学体系の根本に位置する概念の一柱であるといえるのである。

 カントの先天的な叡智的世界よりの価値規範のようなものも、理念である。自己内部の内に、神の御心、神の光明、神の法、神の生命を発見することが、哲学の核心であると思うのである。真なる自由の道は、真なる自己内部の叡智的価値、叡智的法則の実現である。そして、新時代の精神が、自己の深底なる神仏の生命より真に顕れ、実現してゆくのである。



〔 光明祈念歌 〕
自己の内
永遠普遍の
理念あり
絶対宗教
哲学の道
(貴)


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