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「哲学的コラム」 | ||
Japanese Dream Realization |
「西田幾多郎の『自覚』と『絶対無の場所』と『絶対矛盾的自己同一』について」 |
西田幾多郎の「自覚」の立場の哲学を考えるにあたっては、アウグスティヌスの「自覚」とデカルトの「自覚」の考察が大切となる。 西田幾多郎も論文の中で述べているが、西田哲学は、『善の研究』の「純粋経験」の立脚地に立つ哲学から、「自覚」の哲学、さらに、「場所」の哲学、そして、「絶対無」と「絶対矛盾的自己同一」の哲学へと止揚発展してゆくのである。 「自覚」と「絶対矛盾的自己同一」の哲学とは、「統合」精神であり、その背後に、絶対精神の世界史における自己展開を説く「歴史哲学」を持ち、それは、「統合と個性の開花」という新時代における「自覚」と「歴史哲学」にもつながってゆくものである。 アウグスティヌスの「自覚」を、近現代においても有効であるという西田幾多郎の認識は尊いものである。トマス・アキナスの「自覚」も同じである。キリスト教の聖書の『福音書』を真実であると認めた上で、哲学思索をしてゆくのである。 同じく、ルソーも、『福音書』を真実と認めた上で、思索を展開している。それなくして、アウグスティヌスの『神の国』や『告白』は成り立たないからである。 西田幾多郎の「自覚」の哲学は、このアウグスティヌスの「自覚」やデカルトの「自覚」と同一のものでもあった。「自覚」とは、般若の大悟でもあり、西田幾多郎の「絶対無」とは、「色即是空・空即是色」の宗教経験でもあったのである。 仏教の「絶対無」の大悟を、哲学として、アウグスティヌスやトマス・アキナスのキリスト教思想の高みと統合した時に、「絶対無」として、「一即多、多即一」の「絶対矛盾的自己同一」の自覚認識が得られるのである。 このように、西田幾多郎の「自覚」とは、哲学的般若の大悟に基づく形而上学の自己実現、自己展開であったのである。 |