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「哲学的コラム」 | ||
Japanese Dream Realization |
「絶対無の場所とアウグスティヌスとヘーゲルの歴史哲学について」 |
西田哲学における「絶対無の場所」とは、プラトンの『ティマイオス』のイデアを受けとる場所や、アリストテレスの形相を受けとる場所から来ているものである。 ギリシャ哲学における根本神の場所でもある絶対無とは、「無」であるから、基本的に禅宗的形而上学である。無門慧海の「無の関門」こそが、この「絶対無の場所」なのである。 それは、趙州和尚の「犬に仏性有りや。」「無。」という「狗子仏性」の公案を代表とする無の関門の悟り、大悟の形而上学である。臨済禅にしても、無門禅にしても、禅宗の祖とされる達磨禅にしても、参ずる者を無の形而上学に導くものである。 この無の哲学が、古代ギリシャのプラトンやアリストテレスの形而上学と結びついて探究されて、西田幾多郎の「場所」になっているのである。 この「場所」から、本格的に「西田哲学」と呼ばれるようになったが、しかし、西田幾多郎の最初の哲学書である『善の研究』から、既に、純粋経験の奥に、W・ジェームズの哲学を超えて、ヘーゲルの如き内在的超越神の実在の働きを探究思索されているのである。 西田幾多郎論文集の「場所」と、『続・思索と体験』におけるアウグスティヌスの自覚は大切である。アウグスティヌスの自覚とは、「神の国」実現の歴史哲学の形而上学の自覚であり、大悟である。それは、本質的にヘーゲルの「歴史哲学」とも軌を一にしているのである。 このように、アウグスティヌスは歴史哲学者なのである。その主著である『神の国』も『告白』も、アウグスティヌスによる内在的超越神仏の自覚、大悟である。 この内在的超越神仏において「存在と時間」を考察する点は、現代のハイデガー的存在論につながる射程をも持つものであるのである。 |