理念情報

 「哲学的コラム」
Japanese Dream Realization



「自己の本性に従うこととオリジナリティーについて」



 自己の本性に従うということは、自分勝手に自我我欲を満たすということとは異なる。しかし、カントの「実践理性批判」でのべられているように、道徳法則に対して、あまりにも感性を押さえつけ、強制強要という言葉を使いすぎる世界も、多少極端なような気がする。

 自己の本性の中には、もちろん道徳法則も含まれるけれども、もっと広いものが無限無数にあって、その一つ一つを創造的に実現してゆくことが、人生において大切なことのように思われるのである。

 本当に自己の本性を実現するという時は、強制や強要というのではなく、もっと深い所から自然な営みなのではないだろうか。自己の内なる本性に従うということは、様々な事柄に対して積極的に行ってゆくべきことであるが、義務という概念とは少しニュアンスが異なっているのではないかとも思われるのである。

 自己の理性に忠実に生きるということは原則として私も賛成であるが、自己の自然というものを、もっと様々なものに認めていってもよいのではないかと思うのである。そして、カントのいう感性上の欲求に一見分類されるものであっても、本当は大切なものであって、天の恵みや天の摂理であるようなものが数多くあるのではないだろうかと思うのである。

 多少、老荘思想と似ている発想であるが、強制や義務という固定観念や、一定の縛りから、もっと解き放たれた自然な伸びやかな世界がある方がよいのではないかということである。孔子のいう「己の欲する所に従えども矩を越えず」と軌を一にしながらも、もう少し広い概念をもって、自己の本性に従って生きることをとらえてゆきたいと思うのである。

 自己の本性は理性であるということに同意はするけれども、しかし、本性に、もう少し狭義の理性よりも広いものをもたせたいと思うのである。それは、エマソンの自己信頼の精神にニュアンスが近い。一人一人の生のもつオリジナリティーの源が、本性には本来的に存在すると思うのである。



〔 光明祈念歌 〕
本性の
奥には理念の
泉あり
オリジナルなる
水流の出ず
(貴)



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