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「哲学的コラム」 | ||
Japanese Dream Realization |
「知的関心を広げることとモンテーニュ的生き方について」 |
知的な空間というものは、広ければ広い方がよい。知性の輝きといっても、様々なものがあるからである。カントのような知性もあれば、モンテーニュのような知性もある。モンテーニュのエセーを読んでいると、必ずしも哲学者というものは抽象的で体系的な著述をしなくともよいものであるということが分かる。もっと余裕をもって、人生の到る所に真理の泉を発見してもよいのである。 人生には、世界には、到る所に秘められた真理が実在し、発見され、創造されるのを待っているかのようである。ささやかなものを含めて、真理の集積の中に、我々は生かされているのである。人生は有限であるが、しかもなお、有限なものに対して、活かし育んでゆく余裕を持っておくべきではないだろうか。人生の細部に到るまで、広く深く真理を発見してゆくべきではないだろうか。 人生に道をつければつけるだけ、人生は豊かに再創造されてゆく。哲学化されることによって、人生の真実は幾度も輝く。モンテーニュ自身の経験は、哲学化されることによって普遍化され、万人の共有財産として活きてくる。私自身の人生の様々な発見も、哲学的コラムの形にしてゆくことによって、私自身の発見だけに留まらずに、多くの人々に真理の輝きをもたらしてゆくことであろう。 故に、哲学的創造をなしながら生きてゆくということが、人生を豊かにしてゆく一つの秘訣である。視点というものは、時とともに変ってゆくものである。故に、真理の発見も、真理の創造も、一期一会である。今しか発見出来ないことを形にしておけば、自己の思索の軌跡を客観化してゆくことも出来る。 どのような真理を発見しようとも、発見された真理は、私自身の魂の姿そのものである。そして、哲学化される対象は、広ければ広い程、本来はよいのではないかと思われるのである。 キケロの老境についてや、友情についてなどのテーマは、身近でありながら普遍的である。個別具体的なテーマについても思索を加えてゆくことが出来たなら、哲学者としての幅が出来る。知性に幅をもたせておくということも大切であり、哲学の関心事を広くもってゆくということも、哲学者の生き方の一つである。 真善美の認識論を体系的に述べることだけが哲学者の生きる道ではないはずである。モンテーニュのような哲学者像もあるということを念頭において、身近にある哲学的課題を幅広く検討してゆけばよいのである。 何について述べようとも、その人自身の魂の輝きが顕れることであろう。哲学を述べながら、自分自身がいかなるものであるかを、よりよく知ることが出来るのである。 |
〔 光明祈念歌 〕 | |
モンテーニュ | |
とりとめのない | |
余談には | |
心に一息 | |
つかすものあり | |
(貴) |