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「哲学的コラム」 | ||
Japanese Dream Realization |
「運命と徳について」 |
運命というものの背後には、天の摂理がある。あくまでも、その方の魂にとって必要のあるものが与えられるのである。それ故に、どのような運命が与えられたとしても、天が自らに与えたものであるとして、不動心をもって受けとめなければならない。いかなる運命に対しても、不平不満や愚痴の思いをもってはならない。ありがたい天の配材として、感謝をもって受けとめなければならない。 この地上に生きてゆく限り、苦が与えられることもあれば、楽が与えられることもある。しかし、常に、自己の内なる指導理性の命ずるままに、なすべきことを思い、行いつづける魂にとっては、それらは全て、己が指導理性を磨き、輝かせる素材にしかすぎない。 我々にとっての真なる幸福感というものは、自らの指導理性に従って、徳をなす過程に生まれてゆくものである。苦に執われるのも、楽に執われるのも、肉体から生ずる感性にしかすぎない。指導理性は、現象の苦楽を超越している。指導理性の源は、地上世界を超えた天上世界、現象世界を超えた叡智界にあるからである。 たとえ、現象的には苦の内にあろうとも、指導理性の命ずるままに生きている時には、叡智界より生ずる法悦のもとにある。同じように、楽の内にあっても、それを超えた叡智界より生ずる法悦のもとにあるのである。 歴史上の様々な人物をみていても、どのような偉人であろうとも、様々な苦楽を織りまぜた運命から逃れられてはいない。天は、どのような人物にも、現象的な苦楽を様々に与えることによって、その人物の器を或る時は試し、ある時は育んでゆくかのようである。 故に、苦が与えられれば嘆き悲しみ、楽が与えられればそれにおぼれるのではなくて、どのような時にあっても、現象界を超えた叡智界を源とする生を全うしつづけてゆこうではないか。 どのような運命も、結局は、我々の指導理性に忠実に生きることが出来るかどうかを彩る舞台のようなものである。天の摂理は、常に、我々の徳を祝福し、大愛をもって見守っておられるのであろう。 |