「布施」をなすということは、無償の「愛」を与えるということである。故に、本来見返りを求めない心が大切であるといえるのである。見返りを求めない心とは、その方から恩を返してもらおうとは思わないということであり、恩を返してもらえなくても、恨みに思わないということである。これは、天の報いに対しても、見返りを期待しないということも大切である。天に対して恩着せがましくなると、逆に「布施」は透明感を失い、執着になってゆくからである。
故に、「布施」をなすにあたっては、常に無執着ということが大切である。「布施」を与える自分自身にも無執着であり、「布施」そのものに対しても無執着であり、「布施」を与える対象に対しても無執着でいなければならない。これを三輪清浄という。この三つのものを忘れるぐらいで丁度よく、自ずから天に報われ、地に報われ、人に報われ、自らに報われ、「布施」そのものによって報われてゆくことになるのである。
「布施」とは、基本的に「自我」があれば出来ないものであるが、限りなく「自我」を虚しくしてゆかなければならないものである。自分自身を愛する気持ちではなくて、他者を愛する気持ちをもち、天を愛する気持ちをもち、無償の愛を与えつづける自らの神性、仏性、理性、良心をこそ愛する気持ちをもたなければならない。
このように、「貪欲」や、「慢」の気持ちとは反対の「布施」の気持ちをもちつづけ、それを持続しつづけてゆくことによって、あらゆる執着から離れ、「布施」行という修行を通して、「無執着」の天使の境地、菩薩の境地、哲学者の境地を育んでゆくことが出来るのである。真なる「布施」の哲学のもとに、新境地を開拓してゆきたいものである。 |