光明メッセージ
Japanese Dream Realization




「流転する生命の営みに実相の生命を礼拝せよ」




 諸君よ、愛の最高の形の一つは、実相を常に観ずるということである。一人一人の内なる神仏そのものの姿に仕えてゆくということである。一人の人間の迷いの姿に執われておってはならないのである。そのような現象は、本来なしである。そのような現象に執われる心も、本来なしである。

 本来あるべき姿、本来の姿、実相そのものは、常に神であり、仏である。それ故に、一人一人に対する敬意と尊敬の念いというものが生じてゆくのである。一人一人の内にある神仏に仕えてゆくことこそ、最高の菩薩行である。

 真なる使徒会員というものは、神仏そのものに仕える一方において、一人一人の内なる神仏に仕えてゆくものである。愛に敵なしである。愛の下に、全ての方は、神仏の顕れとなってゆくのである。全ての方々が、全てのものが、神仏の生命そのものに真に観えてくれば、それは、自ら自身が神仏そのものの心になっている証である。

 諸君の周囲におられる方々は全て、その実相において神仏そのものである。それ故に、常に神の子、仏の子そのものであり、同時に、唯一無二の個性を有しておられるのである。人間は、一人とて同じ方はおられない。それは、一つの木に同じ葉が一つとてないのと同様の摂理なのである。

 一人一人の個性的実相を礼拝しつづけてゆけば、同時に、唯一無二なる自己への信頼というものもおこってくることである。たとえ、未熟な者として現れているように観えても、神の眼からみれば、尊い神の生命の現れとして観えるのである。未熟というよりも、大宇宙に一つしかない神の芸術の顕れとして観えるのである。

 一歩一歩生長し、発展してゆく姿、時に迷いながらも、機をつかんでさらに飛躍してゆく姿は、そのままで神の子そのものであり、仏の子そのものであり、神より観れば、神そのものに観えるのである。

 真なる実相とは、神そのものの生命の顕れを常に観るということである。実相を常に観るということである。実相を常に愛し礼拝するということである。常にそのままで、既にありがたいというものが人生なのであり、世界なのである。




《光明祈念歌》
流転する
 生命の姿
静止して
   寂にて観ず
宇宙の視点
       (貴)



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