諸君よ、全人類の様々な偉人天才哲人の「個性的実相」を真に拝み出し、さらにその奥に「中心帰一」なる大宇宙の真理、大自然の真理を「究極的実相」「究極的理念」「究極的イデア」(「一者」)として拝み出してゆくことこそ、「大和の哲学」の真髄なのである。
例えば、J・J・ルソーであっても、その本来の「個性的実相」の奥に、「究極的実相」としての「一者」を真に価値礼拝してゆけば、自ずから未完成の「政治制度論」や「道徳感情論」や「理念教育論」等が発見され、その時代の「時代精神」そのものであったことが如実に判るのである。その知的作業をされたのが、実はカントの主要著作であったり、ヘーゲルの主要著作であったり、カーライルの主要著作であったり、エマソンの主要著作であったり、ゲーテの主要著作であったり、福澤諭吉の主要著作であったりするのであり、これらの近代ルネサンス運動であったといえるのである。
そのことをよくよく探究してゆけば、様々な「偏見」や「邪見」や「先入観」を真に取り除き、「如実知見」してゆくということが、いかに大切なことであるのかということが、真に悟られてくるであろう。そして、「自由」というものの本来的価値と、「時代精神」(天意)というものの本来的価値と、「理念哲学」というものの本来的価値が、「如実知見」されてゆくことであろう。
本来の哲学、本来の宗教、本来の芸術というものは、ある意味で、あらゆる「偏見」や「邪見」や「先入観」を一つ一つ取り除き、「正見」し、さらに「個性的実相」を「観」じ、その奥に「中心的実相」(「一者」)を「観」じてゆくことを通して「統合」精神となし、真なる「統合」精神と「統合哲学」をもって「光明照観」することによって、それぞれの「個性的実相」「個性的理念」「個性的イデア」を示現し、真に「個性の開花」を、真なる「秩序」と、真なる「自由」と、真なる「平等」と、真なる「差別」と、真なる「博愛」をもって実現してゆく所に真骨頂が実在しているといえるのである。
仏教における「平等即差別」「差別即平等」という「言霊」の真義は、あくまでも「博愛」の精神にその真髄を解く鍵が実在しているのである。このように、一見対立矛盾しているかの如き様々な概念について、「絶対矛盾の自己同一」の「絶対無」の哲理をもって止揚「統合」し、それぞれの立場にある「一片の理」を真に根本的に救済し、本来の「全き理念」へとアウフヘーベンしてゆくことこそ、永遠普遍なる哲学者の「天命」であり、志士や学者や教育者の「天命」であるといえるのである。
真なる「知的廉直」を旨とした「学問」が多種多様に成され、「知徳合一」「知行合一」を旨とする真なる「志」をもった「学生」が多種多様に創造され、真なる「敬天愛人」の精神をもって活躍してゆけば、様々な分野に「一大光明芸術」が真に創造されてゆくのである。あらゆる面において、すべては善くなってゆくしかないのである。
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