JDR公開理念情報 

 光明メッセージ
Japanese Dream Realization






「神仏に対して何かを望むよりも神仏のために何が出来るのかを自ら問え」





 諸君よ、大いなる神仏の慈悲の眼差しから観れば、すべての神の子、仏の子は、すべて尊い「光」、尊い「善人」に観えられるのである。しかし、人間の側から自己を観じた時期に、心の煩悩の度合いに応じて、或る方は善人の如く、或る方は悪人の如く、罪人の如く観えるのである。故に、すべては自分自身の心の眼次第によって、三界は現れているのである。

 しかし、善人と自ら思っている方が必ずしも善人とは限らないし、悪人と自ら思っている方が必ずしも悪人とは限らないのである。自ら善人と思っておられる方が、実は地獄の住人であったり、自ら悪人と思っておられる方が、実は菩薩天使の世界の住人であることもあるのである。故に、「念仏」の世界においても、非常に逆説的な善人と悪人が現れてゆくことになるのである。

 法然上人や親鸞上人のように、自ら悪人と思っておられる方が、実は真の菩薩であったり、自ら菩薩であり、真に救われていると思いながら、権力闘争にあけくれている方が、実は地獄の住人であることもあるのである。故に、すべての「道」についていえることではあるが、「念仏道」というものもあり、誤った「念仏道」の認識をしていると、堕地獄の道に通ずることもありうるのである。もちろん、正しい「念仏道」の認識をしていると、真に悟り、真に救われてゆくことであろう。自ら悪人という自覚があっても、それが真なる「懺悔」の心となり、「改心」の心となり、「反省」の心となり、心清浄にして、神仏の慈悲を「大悲」として宣べ伝えられ、人々の魂を真に救われた方は、「菩薩」行を実践されているといえるであろう。

 謙虚さと信心と愛というのは、本来一体である。真なる謙虚さから真なる信心が生まれ、真なる信心から真なる愛が生まれ、真なる愛から真なる果報が生まれてゆくのである。故に、大いなる神仏の慈悲の眼差しにおいては、すべての方が「光」であり、「善人」であり、「一大光明芸術の主役」であり、その意味において「平等」なのであるから、真に心空しくして神仏の慈悲を信ずることである。

 そして、神仏に何かを望むのではなく、神仏のために何を与えうるのかを思案し、大いなる「布施」行に精進してゆくことである。その時期に、真なる神仏の光明が大いなる天の栄光として降り注いでゆくのである。本来神と仏と理念(イデア)と真理は一つである。一なる法則、一なる理法である。故に、永遠普遍性があり、同時に多様なる教えの分かれとして、真に幸えているのである。それ故に、多様なる人々の魂を真に救ってゆくことができるのである。

 真に天を愛し、人々を愛し、自己の人生のすべてのすべてを愛せよ。さすれば、どのように一見救われないようにみえる人生であっても、一大光明芸術となって真に救われ、その罪は真に贖われ、そこに、神聖なるヒューマニズムの物語が誕生してゆくのである。ありとしあらゆる道から、真に新生日本ルネサンスの潮流、新生地球ルネサンスの潮流が始まってゆくのである。あらゆる面において、すべては善くなってゆくしかないのである。




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