諸君よ、男尊女卑ということは真理ではない。真実ではない。男性もその神性においては尊く、女性もその神性においては尊く、その神性において活かし合い、伸ばし合い、育み合う時期に、素晴らしい創造が生まれてゆくということが、古事記等で描かれている真理の本質なのである。
伊邪那岐大神、伊邪那美大神の二神によって国生みがなされるという神話の中には、限りなく心空しくして、陽の個性と陰の個性を、お互いの属性と個性と絶対価値を尊重しようという天の御心が述べられているのである。
特に、天照大神といわれる一般に女神とされている方を国体の中心精神に伝統的に拝している日本文化において、女性の大和心が尊重され、配慮され、独特の個性的価値が与えられているということは、人類史の中でも誇るべきオリジナリティーであるといえるのではないだろうか。
福澤諭吉にしても、日本最高のサムライたる武士道、志士道精神をもって、西洋の近代文化文明の象徴たる自由の女神を尊敬して迎え、導かれているという御姿は、慶應義塾の誇りになっておられることと思う。この前提には、日本男児というものが、伝統的に本来剛く優しくあり、美しさを愛するという特質を有していることに発しているのではないだろうか。
故に、本来のサムライの心、武士の心、志士の心の王道とは、優しさにあるともいえるのである。その志が高く掲げられ、お互いに独立自尊の心を有し、お互いの個性を尊重しているからこそ、そこに深い友愛が生まれてゆくのではないであろうか。そして、その純粋愛情の精神は、世界的にも普遍性を有しているものであり、新時代のビジョンたりえることは、福澤諭吉に象徴されているといえよう。
あらゆる個性の奥にある絶対価値を敬う所から、真なる独立自尊の繁栄が幸えてゆくのである。あらゆる面において、すべては善くなってゆくしかないのである。