理念情報

 「哲学的コラム」
Japanese Dream Realization



「詩と哲学と文学と世界的名著について」



JDR総合研究所 代表
天川貴之




 文章というものは、時を経るにつれて、磨きがかかるものであり、また、その方の人となりを示すものである。

 同時に、それは理性そのものでもある。この理性の磨きこそ、その作家の文章の文体であり、感性の煌めきでもある。

 詩と哲学は、本来、一体となるものである。最高の哲学は、最高の詩ともなり、最高の文学ともなるのである。

 優れた哲人の文章は、詩そのものでもある。一行一行に美学があり、イデアの輝きがあるものである。そして、真なる哲学者の思索というものは、独自の輝きを得ているものである。

 このように、理性と感性というものは、止揚されうるものである。思索と直観というものは、双方、必要なのである。哲学と詩と文学というものは、本来、一つの精神の営みであるのである。

 例えば、三島由紀夫の文章というものは、詩であり、かつ哲学でもある。また、セネカの一行一行というものは、詩であり、文学である。

 マルクス・アウレリウスは、皇帝であったが、「自省録」を書く文筆家でもあり、愛を雄弁に説く哲学者であった。また、キケロの雄弁は、歴史を超越して、現代の日本社会でも、アメリカ社会でも、名声を得つづけ、模範となっているのである。

 三島由紀夫の雄弁も、古代ギリシャ・ローマにあってもよいようなものでもある。神道の神の範囲にいるのは、もったいないものであるような世界文学でもある。

 鈴木大拙の文章も世界文学である。それは仏教思想であるが、日本文学でもある。鈴木大拙も、西田幾多郎も、世界的哲人であり、ギリシャ・ローマ的なルネサンスでもあるものである。





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