理念情報

 「哲学的コラム」
Japanese Dream Realization



「『純粋経験即空』の哲理について」



JDR総合研究所 代表
天川貴之




 西田幾多郎の云う所の「純粋経験」というものは、主客合一した「空」の境地である。

 意識現象を唯一の実在として、「善の研究」の認識論は成立している。超越的イデアというものも、意識現象の中に現れる実在精神なのである。神仏というものも、意識現象の中に発見見性されるものである。

 般若心経に説かれる「色即是空」の「色」とは現象であり、「空」とは実在である。この「空相」とは、不生不滅、不垢不浄、不増不減である。

 龍樹に「八不中道」という哲学があるが、それは、「不」によって否定してゆくことを以って顕われる所の永遠不滅の仏性、実在精神の姿を述べているのである。

 意識現象は色であり、それはまた空であり、実在である。空・無の背後に、実在があるのである。「無門関」を真に開けば、実在に到るのである。さらに、「絶対無」というものも、その原点は、趙州和尚の「無字」の関門にあるのである。

 無といっても、有といっても、それは、活殺自在の青竜刀のようなものである。親鸞聖人の「正信偈」にも、「有無を離ると述べたまう」とある。

 「有無の中道」というものがあるが、それが空である。この空の中に実在があり、「真空妙有」があるのである。

 純粋経験によって、主客合一の空の境地に立脚して、仏我一如の天来のインスピレーションを受けつづける時に、哲学は一つの真理の体系となってゆくのである。

 そこから「善の研究」は生まれたのである。西田幾多郎は、見性体験によって、実在を発見したのである。認識したのである。

 真善美聖の実在こそ、神仏の生命の輝きである。真なる見性体験こそが、真理と合一して、真理を思索し、育むということである。





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