理念情報

 「哲学的コラム」
Japanese Dream Realization



「真実の心の内面の記録について」



 真実の内面の記録というものは重い。マルクス・アウレリウスの「自省録」の言葉の数々が真に人の心を打つのは、それが偽らざる本心であるからであろう。アウレリウスが一体何者であったかということを語るのは、皇帝としての歴史的史実であるというのが、千人の人間が居れば千人の人についてあてはまることであろうが、アウレリウスに関しては、日記の彼の真実の言葉であるといえる。

 アウレリウスは、皇帝である前に哲学者であった。哲学論文をつづる以前に、真の哲人であった。彼は哲学者になれないと苦悩している間にも、既に哲学者としての言葉を歴史に刻んでいた。万人のための講義用に準備され、整えられた言葉よりも、彼自身の本心をつづった言葉の方が、よりよき哲学であった。真実の姿がより文学的価値を生むこともあるということを、歴史は証明している。

 一方、近代のジャン・ジャック・ルソーの人間の真実の姿の描写が、真に哲学的であり、芸術的であり、永い眼でみれば、よりよき魂の同志を創造するということも、人類史は語っている。

 三島由紀夫は「仮面の告白」をそのデビュー作としたが、いかに「仮面」を「告白」の上につけることが難しいことであるのかということも告白している。本当は、仮面をつけない人間のありのままの姿は、どの方も最も根源的な創造作品であるということを、気づかなければならない。そして、ありのままの真実の姿に着眼した方が、本当の哲学、宗教、芸術、道徳等を育んでゆくということも事実なのである。

 エマソンの「自己信頼」の自己ということも、自己の良心、本性に忠実にあるということである。自己の真実は、真実であるが故に重い。善く生きる生の一刻一刻である。そして、真実の姿を直視しあって、その上で、真に愛し合い、協力し合うことができるならば、その結束は何よりも固いであろう。

 本心に忠実になることが、より哲学的になるということであり、より哲学的な愛を共有し合う条件でもある。私達は、嘘の多い世の中にあって、真実の本音の部分を慈しみ合える仲間を探しているのである。本音の所に、真の人類愛がアウレリウスやルソーのようにあれば、どのような人間的な一面も昇華してゆくであろう。




〔 光明祈念歌 〕
自省録
あらためて今
読みかえし
真実の自己
いかにと問うた
(貴)



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