JDR公開理念情報 

 光明メッセージ
Japanese Dream Realization






「『国のかたち』という公案を透過せよ」





 諸君よ、「国のかたち」を考えてゆくにあたって、日本の伝統精神の源である神道というものをどのように解釈してゆくかということは大切なことである。神道にも実相というものがあり、理念というものがあり、理念が地上に顕現したものとして、真象というものが実在する。この真象こそが「神の国」そのものである。

 この理念という言葉は、プラトン、プロティノス等のイデアという言葉に置きかえてもよい。言葉面の解釈に執われることも執着である。これを概念への執着という。しかして、悟りの境地をもって、概念の奥に、理念、イデアを直観し、思索してゆくことを大悟という。大悟という言葉は仏教的な響きをもつものであるが、哲学の世界、特に、学問の世界においても大悟というものは実在するのである。

 かの無門和尚も、有の立場に執われるのも、無の立場に執われるのも、本来の無の立場、大悟の立場ではないということを無門関の中で述べられているが、真理の門にも明確な「関」があり、この関門を突破できるか否かは、知識の多い少ないや、年齢の高い少ないや、社会的実績の有無に関係がないのである。「観」えるか否か、「直覚」できるか否かによって、自ずから証されてゆくものなのである。

 その意味において、神道と国体真理の関係においても、悟りの「関門」というものがあり、「観」えるか「観」えないか、悟れるか悟れないかということが、勝負所の「公案」なのである。日本の歴史の中には、日本の「国のかたち」の理念的真理に対して見事に大悟された方が何人かおられ、そうした方の悟りを高峰として、永い伝統が維持されてきたのである。

 神代の時代の神々が直覚され、大悟された「国のかたち」の理念は、永遠不滅の実相である。真理とは、本来時空を超越しているものである。神代の日本的理念は、今なお変わらず、後代もなお変わらないものである。そして、その根本精神は「無」であり、「絶対無」である。十六方菊の中心精神は、すべての個性的実相を開花させてゆく、限りなく広く高く深い大道である。太陽の真理そのものであり、大宇宙の真理そのものなのである。

 その本来の姿を心空しく悟る知的修行をなし、小悟を積み重ね、誤ちては悔い改め、新生し、大悟的真理を敬いながら、大悟された先人を敬いながら、新時代に、より洗練された大調和の真象としての国家を衆知を結集して育んでゆこうではないか。あらゆる面において、すべては善くなってゆくしかないのである。




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