学問を尊重するということを通して、悟りの道に到るということもある。究極の天の摂理を信頼して敬いながらも、自らの理性を信頼して、堂々と、一歩一歩、理性的向上の道を歩んでゆくことは、万人の魂を健全に育んでゆく上で大切な方法論なのではないだろうかと思う訳である。学問を通して広い世界観を築き、自らの内面世界を広げてゆくことは、それだけで尊いものであるといえるのである。
例えば、一つの宗教思想を信じ、それだけで生きてゆくという方もあるが、ともすれば、排他的独善的な傾向が生まれてゆくことも多いのである。それに比べれば、常に心を広い世界に向けて、学問を一つ一つ丁寧になしてゆくということを悟りの道としている方は、それだけ寛容で謙虚な姿勢を保ってゆくことが出来るともいえるのである。
近代啓蒙主義の流れを尊重し、さらに、新時代においても、その流れをより広めてゆくことも大切なことである。世界には様々な古典があるけれども、それらの古典を丁寧に一つ一つ学んでゆくことが大切であり、その都度立ち止まって、自らの思索を磨いてゆくことが重要なことであるといえるのである。
そして、出来ることならば、新しい学問を創造してゆくことが知的貢献をなしてゆく道であるといえるのである。研究をしながら、研究の対象となるものを創造してゆくことには限りがないのである。こうした知的生産物を創造することが出来たならば、それが、何よりもの自らの個性的生命であるといえるのである。
天の御心は広いものであり、高いものであり、深いものであるが、ある面では、非常に細やかで、その分、豊かさがあるものであるといえるのである。その趣を研究してゆけば、様々な神の御姿を発見することが出来るに違いないのである。
学問的探究の道を通して、天の御心を発見してゆくことは、万人に対して確実な間違いのない合理的な悟りの道を提供すると思う。既に、広い世界が開けているのである。学問を通して、広い天の門があるということを悟れば、広やかな天の大地に生かされている自己を発見されることと思う。