塾生諸君に述べておきたい。人間は、ただ単に生きているだけでは、動物的生を全うしているだけであるが、哲学的光明によって、その生を射照してゆけば、「善く生きる」神々の生を獲得することが出来るのである。何故なら、哲学とは、人間のあらゆる営みを永遠普遍化し、理念(イデア)的なるものへと昇華してゆくことに本質があるからである。
故に、ただ生きることのみに満足をせずに、常に、一つ一つの生命の営みに対して、その意義を哲学的光明によって射照してゆく習慣を持ち、哲学的光明によって、自己の生命そのものを射照してゆくことは大切である。哲学的光明で射照した生命は、もはや動物的生ではなく、地上的属性としての無常無我なる存在ではなく、永遠普遍なる神々の生となってゆくのである。
哲学そのものの中に、本来の永遠の生命の源があり、ロゴスそのものの源があるのである。そして、本来有している人間のロゴスの潜在性を、顕現化させてゆく力があるのである。哲学的光明によって射照されなければ潜在化していたものも、真なる哲学的光明に射照されれば顕在化し、本来の人間の霊的生命体が顕在化し、理念(イデア)そのものが顕在化し、或る時には、理法(法身)そのものが顕在化してゆくといえるのである。
その意味において、哲学的光明を、自らの魂の糧として日々習得し、思索しつづけてゆくことは、人間としての最高の文化的営みであるといえるのである。永遠普遍なるものこそ、真なる価値の根源であり、永遠普遍なるものと一体となることこそ、文化の意義であり、哲学の真骨頂であるといえるのである。
真に無常無我なる今を永遠普遍の今となし、永遠普遍の哲学的光明を掲げてゆけば、あらゆる面において、すべては善くなってゆくしかないのである。