塾生諸君に述べておきたい。永遠なるものを探究してゆくことこそ、真なる学問の真骨頂であるといえるのである。人間存在は、ともすれば、無常なるものばかりが目に入り、地上生活の内に、一片の永遠なるものを見い出せないこともあるけれども、実は、地上生活もまた、永遠なるものに満ち満ちているといえるのである。
無常なるものばかりが地上生活に満ち満ちていると思ったのは、実は、自分自身の精神が、無常なるものに執われて、永遠なるものを忘却していたにすぎないのである。常に、永遠なるものへと心を定めていれば、いついかなる時においても、地上は、永遠なるものに満ち満ちているのである。
例えば、古典的真理などは、永遠なるものの代表である。その多くは、時代がどのように移り変わろうとも、決して変わることのない実在性を帯びているのである。このように、真なる学問の対象になっているものは、永遠なるものが多いのである。無常なるものは、真なる文化とはいえないのである。文化が文化たる故は、永遠性に実在しているといっても過言ではないのである。
故に、地上に満ち満ちている無常なるものに心を執われすぎずに、常に永遠なるものに眼を向け、永遠なるものへと自己の魂を高めてゆこうではないか。そして、永遠なるものを一つでも多く発見し、顕現してゆこうではないか。永遠なるものと真に一体となって、「善く生きる」ことを実践してゆこうではないか。
真なる「善」というものは、永遠なるものを地上に実践しつづけてゆくということであり、無常なるものに執われた生き方をせず、永遠なるものと一体となった生き方をしていくということなのである。
真に永遠なるものを探究し、発見し、学びつづけてゆけば、魂は真に永遠なるものへと解放され、あらゆる面において、すべては善くなってゆくしかないのである。