塾生諸君に述べておきたい。愛に真に目覚めてゆくということは、愛のロゴスに真に目覚めてゆくということである。愛のロゴスに真に目覚めてゆくということは、愛のロゴスを自分自身の心の内奥に、真に育んでゆくということである。いかに外なる世界において、愛のロゴスが実在していても、自分自身の心の内なる世界において、愛のロゴスが真に実在していなければ、愛は愛として、真にその働きを成してゆくことが出来ないのである。
それ故に、愛のロゴスを真に学びつづけてゆくためにこそ、様々な愛の実践が大切になってゆくといえるのである。いくら愛が大切であるということを学び、知り、公言していても、実際問題の内において、愛の思いと行いを実践しつづけてゆかなければ、愛とはいえないのである。
その意味において、愛というものは、知識において学ぶだけではなくて、何が本物の愛であるかということを真に悟得し、魂の実感として把み、心と精神と行動の習慣の実力にまで高めてゆかなければならないのである。それ故にこそ、真に愛を学びつづけてゆくということは、真なる学問の王道であり、真なる学問の本質であるといえるのである。
愛故にこそ、真に信頼し、愛故にこそ、真に希望と夢を持ち、愛故にこそ、真に勇気を持ち、愛故にこそ、真に光明信念を持ち、愛故にこそ、真に具体的実践活動をなしつづけてゆかなければならないのであり、愛故にこそ、真なる「悦び一元」の信条を全うしつづけてゆくことが出来るのである。故に、真なる愛と信頼と光明の王道を常に歩みつづけ、愛と信頼と光明の「質」をより高く、より深く、より広くしつづけてゆくことが大切なのである。
真なる「無償の愛」というものは、限りなく「絶対愛」に近いものであり、それ故にこそ、憎しみに対して、愛をもって相対しつづけ、疑いに対して、信頼をもって相対しつづけ、失望に対して、光明をもって相対しつづけ、臆病さに対して、勇気をもって相対しつづけ、冷たさに対して、情熱をもって相対しつづけ、諦めに対して、信念をもって相対しつづけ、罪と罰に対して、救いをもって相対しつづけてゆかなければならないのである。
さすれば、どのような闇の内奥の中からも、真なる光が生命の本来相を射照らし、真なる愛と信頼と光明の王道を実現成就しつづけてゆくのである。
真に、知識の内奥に、真実なる知恵の光明を掲げつづけ、知恵の内奥に、真実なる叡智の光明を掲げつづけ、自らの本物のロゴスとして育み、結晶化させつづけてゆけば、心の内にも、心の外にも、真象としてのロゴスが顕われ、あらゆる面において、すべては善くなってゆくしかないのである。