塾生諸君に述べておきたい。「言論の自由」が真に保障されているということは、「言論人」に「責任」を問うことが出来ることによって全うされるのであり、「信教の自由」が真に保障されているということは、「宗教家」に「責任」を問うことが出来ることによって全うされるのであり、「経済活動の自由」が真に保障されているということは、「経済人」に「責任」を問うことが出来ることによって全うされるのであり、それを可能とする健全な「道徳
倫理 哲学」と、「法の精神」と、主体性のある「自己信頼」の精神、「独立自尊」の精神、「自主独立」の精神が伸び伸びと育まれてはじめて、真なる「自由」な社会が創造されてゆくといえるのである。
その意味において、一八六七年の「王政復古」に基づく、一八八九年以降の「大日本帝国憲法」下における「議会制民主主義」「議会制自由主義」は、「一般意志」としての「天意」の下に、真に「実在」し、有効に機能していたといえるのである。そのことは、同時代の西欧諸国の良識良哲が真に賞讃されていた真実によって明白であり、本当は、日清戦争、日英同盟締結、日露戦争、第一次世界大戦、ベルサイユ条約締結に到るまで、真なる先進国型立憲民主政治が健全に「祭政」されていたというのが世界史的日本史の真実なのである。
そして、後に「孫文」に影響を与えたような「大東亜」という「民族平等」の精神理念は、基本的に正しいものであったが、主として、政治(軍事、外交、経済政策)上の判断ミスによって、第二次世界大戦に突入、敗戦し、「占領下」において「日本国憲法」が制定され、その後、「奇蹟」の戦後復興を「ジャパニーズドリーム」として成し遂げ、名実共に勝利してきたというのが、「平成元年」(一九八九年)に到るまでの基本的な世界史的日本史なのである。
その背景にあったのは、「平成元年」(一九八九年)にベルリンの壁が崩壊し、「平成三年」(一九九一年)に「ソ連邦」が崩壊したことに代表される、ロシア革命以降、特にスターリン下の「ソ連邦」の「軍事的脅威」を「中心軸」として考察してゆかない限り、第二次世界大戦に到るまでの一種の「異様」な世界史的緊張と悲劇の本質は解明出来ないのである。
その上で、マルクス哲学のもつ「唯物論」の根本的危険性と、ニーチェ哲学のもつ「ニヒリズム」の根本的危険性と、五・一五事件や、二・二六事件や、一部のアラブ諸国や、一部の共産主義諸国や、一部の民族紛争諸国によく見られるような、「法の精神」を蹂躙する「テロリズム」の根本的危険性を「教訓」とし、「新時代」に向けて、「魂や心や理念(神)」を尊重する、柔軟で健全な「理念ヒューマニズム」型大調和「法治国家」を理想として、新生日本、新生地球を真に建設してゆかなければならない。
近代以降の文化文明を基本的に尊重しながら、同時に、二十世紀の「功罪」と「教訓」をよくよく活かし、前向きに、「新時代」の「夢の星」を、国際協調の精神を旨として、「夢と希望と勇気」をもって積極的に創造してゆくことこそ、真なる「時代精神」であり、「世界精神」であり、真なる「理念の革命」であるといえるのである。
「大和の哲学」をもって、真に日本国の運命を開拓し、地球の運命を開拓してゆけば、あらゆる面において、すべては善くなってゆくしかないのである。